八丈島のロックンロール キムラ弁護士事件帖 木村晋介 著 [#表紙(表紙.jpg、横90×縦130)] 目 次  事件その一[#「事件その一」はゴシック体] あゝなつかしや 青春篇         歌う弁護士の誕生前史         西小岩一丁目のタイム・トンネル         ラジオから浪曲が流れて  事件その二[#「事件その二」はゴシック体] 夜毎のカラオケ 飲酒篇         八丈島のロックンロール         毎度毎度の自己弁護         あたしゃ早寝がしてみたい         わがダイエット奮戦記  事件その三[#「事件その三」はゴシック体] かくもあやしき 探険篇         弁護士アメリカを行く         必殺ヤブ蚊集団         鹿児島のぼるラーメンの堂々  事件その四[#「事件その四」はゴシック体] わたくし大好き 娯楽篇         弁護士おだてりゃパーソナリティ         熱烈ラジオ後遺症         江川よ、悪役にだって消え方のルールがある         わからん映画「竜馬を斬った男」         競馬にゾッコン         正義の味方的'86プロ野球ソーカツ         偏執的'87日本シリーズヒヒョウ  事件その五[#「事件その五」はゴシック体] 読んだふりして 読書篇         六法全書の楽しい読み方         ほんとに頭のよすぎる本         これがお巡りさんの勉強本だ         サラ金問題の本質本         弱さのしくみを理解せしめよ         国語の授業は生体解剖         僕の好きな本         少年マンガとあの広告         時代はもはや草野球         美容健康書ブームってなに?  事件その六[#「事件その六」はゴシック体] やっぱり弁護士 激怒篇          一〇〇円玉電話機のネコババ金を返せ         不快な改札よ、きしめん券だぞ         プライバシーが尊重されない時代         スポーツマスコミよ、いいかげんにせよ         テレビ局ダラ幹の決めたこと         コンビニエンス電車を走らせなさい!         結婚は車検なみにすべきだ         法廷でナマの裁判のお勉強         伊勢エビと鯨  事件その七[#「事件その七」はゴシック体] ついついしゃべる 秘密篇         新事務所でオオシク独立宣言         森瑤子だからトバッチリ         もりソバの正しい食べ方         初のオロカ本ハズカシ出版録         わが家にもケンポウがある         私の「三間」         毛皮フトンの誘惑         椎名誠もすなる日記風にて   あとがき……も読んでネ [#改ページ]   事件その一[#「事件その一」はゴシック体]  あゝなつかしや  青春篇[#「青春篇」はゴシック体] [#改ページ]   歌う弁護士の誕生前史  二〇代は司法試験の勉強とともに始まった。それまでは、右翼少年をきどってみたり、古典落語の世界に傾倒したり、エタイの知れない怪人物たちと怪しげなガリバン雑誌を出したりしていたが、そういうもののうち、自分の生き方にとって意味の少なそうなものを整理して、子どものときからの夢だった弁護士をめざすこととしたわけだ。  まず、右翼理念には少しも魅力を感じなくなっていたので、これを捨てた。できれば落語家にもなりたかったのだが、才能にいまひとつのものを感じたし、弁護士とは両立しそうにない職業なので、これもあっさり捨てた。しかし気の合った怪人物たちとのつきあいだけは、試験勉強と両立できないこともなさそうだったのでつづけることにした。その怪人物たちとは、今をときめく椎名誠(作家)や沢野ひとし(イラストレーター)とその仲間である。この連中とのつきあいには、勉強のためというぐらいでは、簡単には断ちきりがたい気分の良さを感じていたのだ。特に、この連中とおたがいの家をとびだし、六帖一間の木賃アパート「克美荘」でくり広げた、破天荒な原始共産主義的下宿生活は、今のボクの仕事感覚やアソビ感覚の背景になっているように思える。  司法試験にうかったのが六七年。翌年から二年間の司法修習生活があった。実務修習のために、生まれ故郷の長崎で暮らした約一年半は想い出深い。ほとんど酒とマージャンにあけくれていたといってよい。当時は三万円弱の給料だった。毎月のツケを払うために、下宿代を値切るなんぞは日常茶飯。それでも、帰京するときには、堂々五万円くらいのツケをバッチリ残してきたのである。「ルパン」のマスター、ごめんね。  そんなとき、水俣病裁判がぼっ発した。友だちに誘われて、被害者たちと会うために水俣に出かけた。ショックだった。戦後民主主義下の戦いは、天皇陛下のためではなく、まさにこういう人のために戦われなくてはならない。そんなつきつめた思いが、背筋をかけぬけた。  七〇年に東京で弁護士となった。その年に、父をガンで失った。二〇代の後半は、新進の弁護士として、シャニムニ仕事にあけくれた。しかし、本当にライフワークとしてとり組もう、というような仕事には出会わなかった。  オイルショックを経過して、サラ金問題が社会問題化しはじめた。悪徳な取り立て人に追われ、自殺寸前で相談にくる人々の顔に水俣病被害者たちの顔がダブった。「弁護士が何だョ。テメェがかわって払うのか」と電話の向こうで怒鳴るサラ金業者たちとの消耗戦が始まり、マスコミもここに目を向けはじめた。その戦いのさなかで、ボクは三〇歳をむかえた。 [#改ページ]   西小岩一丁目のタイム・トンネル    1  その日は、小岩駅からバスで二〇分ほどのところにある、Q製作所という医療用ベッドの会社の倒産事件の打合せがあって、午前中に工場に寄りました。こちらの方に来るのは珍しく、仕事で小岩駅に降りたのは考えてみれば初めてのことでした。  Q製作所は、ここ数年の間の経営の行きづまりから、三月末に不渡り手形を出し、一億数千万円の負債を残して倒産、三〇年間操業して来た工場を閉鎖することになったのです。  当日は、僕の依頼者であるQ製作所の社長と、工場の家主との間で、明渡しの日取りや滞納家賃と敷金の精算方法などの話し合いがされることになっていたので、僕がこれに立合ったのです。  話し合いは少々手間取ると思っていたのですが、社長と家主の間の下話しが進んでいたため、ひと気のない工場の中でのちょっと湿っぽい話は二〇分くらいであっけなく終わりました。そんなわけで僕が小岩の駅にもどったのは一二時少し前ぐらいの頃でした。新宿の僕の法律事務所には、二時までに帰る予定になっていて、かなり間があるので、僕は小岩駅の南口の中華ソバ屋に入り、醤油ラーメンを注文しました。  ラーメンができてくるのを待つ間、小さなカウンターの向こうでこちらに背を向けて、ニラレバ野菜と覚しきものを炒めている男が、いかにも大袈裟に振り回しているフライパンの中を見るともなく眺めていました。そして思いがけずにできてしまった一時間余りの手すき時間をどう過すか、喫茶店にでも寄って、遅れている「本の雑誌」「歌舞伎町のママさんたち、その3」の原稿でも書くか、などとぼーんやり考えていました。その時突然、「あっそうだ。ここはあの小岩だったのだ」という、何とも懐かしい痺れのような感覚が尾※[#「骨+低のつくり」、unicode9ab6]骨の辺りから湧きあがり、僕の背骨を通って稲妻のごとく頭頂部へと突き抜けたのです。  椎名誠の書いた『哀愁の町に霧が降るのだ』という、僕たちの青春時代の実録的エッセイをお読みの読者はご存じでしょうが、この小岩こそは、僕たちが学生時代に原始共産制的共同生活を送った、あの克美荘のあった街なのです。電車も高架式になってしまい、すっかり駅前はビル街に生まれ変わってしまったので、ほとんど一八年前の面影はとどめていないけど、この地こそは、僕や椎名や沢野ひとしにとっての青春の舞台そのものだったわけなのです。  数年前に克美荘が昔のままの姿で残っているという噂が誰かから伝わり、僕はその頃から、一度僕たちの下宿のあった辺りを探訪してみたいと思っていたのですが、ついつい実現せずに過ぎていました。滅多にないチャンスがふいに訪れたのです。  僕は運ばれてきた醤油ラーメンをソソクサとすすって店を出ると「克美荘」をめざして、小岩駅の北口へと向かったのです。  一八年前には、一杯飲み屋とかつどん屋のほかには、小さな不動産屋の店ぐらいしか並んでいなかった小岩駅の北口には、真ん前にイトーヨーカ堂の大きなビルがどっしりと腰をすえ、三菱銀行までが進出して、何もかもが変わっていました。こんな街の中にあの汲み取り便所付二階建ボロアパートが本当に残っているのだろうか、それに道もすっかり変わってしまって一体どこから手をつければ克美荘をめざせるのか、その見当すらもあやしい。僕はイトーヨーカ堂の赤茶色をした展望式エレベーターの下で、途方にくれる思いで立ちつくし、ともかく、当時のことで何か目印になるようなものがなかったかを必死に思い出そうとしたのです。  はっきり思い出せたのは、㈰克美荘は、駅の北西方向、総武線の線路に対し概ね四五度の角度の線上にあり、駅からの所用時間は約七分程度であったこと、㈪駅から克美荘に向かう経路には、第一ルートとして、総武線の線路際の道を新小岩方向に向かい、踏切の先を右に曲がる右折北上ルートと、第二ルートとして、北口商店街に入り、スーパー・ダイエー前を真西に向かう、街中《まちなか》中央突破ルートとがあり、真っ直ぐ帰るには第一ルート、晩メシの買物をしながら帰るには第二ルートがそれぞれ活用されていた、ということなどでした。総武線が高架になり、踏切は無くなったはずなので、今回は第一ルートは危険とみて、第二ルートを採ることにし、まずはスーパー・ダイエーを探すことから始めました。  北口商店街のこの辺りと思うところを何度かグルグルと巡るうちに「スーパーやおうめ」という店の前に出ました。この店舗が、どうやら昔のスーパー・ダイエーの跡を継いだものであることは、その前にある「おいしいくだもの、小林青果店」の風情がほとんど当時のままだったことから分かりました。この先に、「かつまた」というちょっとした小料理屋があって、その先をどっちかに曲がるとわが青春の克美荘に至るはずなのです。僕は何かに急《せ》かされるような思いで、「スーパーやおうめ」の角から西に向かいました。その道の両側は一八年前にはほとんど木造のしもた屋ばかりが並んでいたはずなのですが、今では、ちょっとしたビルや、大きな貸座敷つきの料理屋もあって、結構な商店街になっています。勿論「かつまた」は見つかりませんでした。しかし、克美荘に確実に近づいている、と思うと、少し息が苦しくなるような、せつないような、何とも不思議な気分になってきました。  と、僕は急に歩道橋のある幹線道路にぶつかってしまったのです。これは、おかしい、こんな大通りは絶対無かったはずなのです。この大通りの出現によって、僕にはすっかり何もかも見当がつかなくなってしまいました。おそらく、この道路の拡張工事で、克美荘の周辺はそっくり立退きになってしまったに違いない——僕は、その辺にへたり込みたくなるほど、がっかりしてしまいました。  しばらくは恨みがましく歩道橋をぼんやりと見上げていた僕でしたが、少しこの辺を回れば何か昔の臭いが残っているかもしれない、と未練にかられて横道に入りました。しかし、その辺りの家並は、すっかり新しい建物に建て替わってしまい、何ら十八年前につながるものはないようで、ますます僕は落胆して、駅の方に向かおうとしました。その時道の先に、金網の張ってある空地が目に映りました。何か、引っ掛かるものがありました。いつかどこかで見慣れた風景……確か……アパートの前から……。  一瞬背筋が冷たくなり僕ははっとして、振り返りました。  すると、何とそこに! 何と目の前に! 現われたのです! 忽然と! 克美荘が!  克美荘は周囲の街並の移り変わりを無視するように、泰然として、一八年前と寸分違わない優しい姿のまま、ぼんやりとした昼さがりの光の下に佇んでいました。  煤けた淡い桃色のモルタルの壁、雨の翌日に布団を干し、水を吸わせて失敗したブロック塀、汲み取り式便所特有の戸外に剥き出した太いパイプ、「克美荘」と記した陶器の大きな表札。何もかも、昔のまま、何ひとつ変わっていません。  一八年間を隔てていた時の仕切りが、オブラートのように溶けていきます。  僕は、頭の中が急にからっぽになってしまい、克美荘を見上げてしばらくそこに立ち尽くしました。予期せず、こみ上げてくるものがあって、全くだらしのないことに少し膝が震えるのがわかりました。  それほど克美荘の出現は唐突で衝撃的だったのです。仮に、僕の三番目くらいの初恋の人である小西世志子さんや、斎藤夏実さん(僕は中学の時に突然、二人いっぺんに好きになってしまったのです。勿論、ハナもひっかけてもらえませんでしたが)に突然道で会ったとしても、ここまで感動したかどうか、ちょっと自信がありません。  ようやく放心状態から覚めた僕は、克美荘の玄関の前までノソノソと進み、少し身体をかがめて、昔とちっとも違わない大きな素通しガラスの開き戸に鼻づらをくっつけるようにして中を覗き込みました。正面左手には、下駄箱、その向こうに僕達の借りた六帖間の扉が、その右手には薄暗い階段が、これまた昔と寸分違わない姿を見せています。このまま、ガラス戸を開けて、僕達の部屋に「タダイマ」と帰っていっても少しもおかしくない——そんな風に感じて動けずにいました。  その時です。  頭の上の方から、大声がしました。「あんた!! 木村さんじゃないの!」  僕は、突然の怒鳴り声にびっくりして、腰をかがめたガニマタ姿勢のまま、二、三歩後ずさりし、何が起こったのかと階段の上をガラス越しに見上げました。  何ということか! そこにいたのですよ、あの斎藤さんのオバチャンが。一八年間ずーっと住んでいたんですこのオバちゃんが! (斎藤さんのオバチャンについて詳細を知りたい人は、椎名誠作『哀愁……』の中巻四一七頁以下を参照されたい)  斎藤さんは、ドドドドドドドッと、転げ落ちるように階段を降りてくると、「やっぱりそうだろ! 木村さんだろ! ちっとも変わんねェよう!」といって、勢い良くガラス戸を開けました。斎藤さんこそ、一八年前とちっとも変わっていないのです。突然の成り行きに面喰うばかりの僕でしたが「ちょっくらあがってけよう!」というお誘いに甘えて二階の斎藤さんの部屋にお邪魔し、お茶をご馳走になり、ひとしきり昔話に花を咲かせました。  斎藤さんは、家主さんから、このアパートの管理人を頼まれて、ずっとここに住んでいたのだそうです。二階の小沼さんの話、おまえおまえ男(『哀愁……』の中巻にでてくるアル中男)の話、僕と椎名が夜中にプロレスで騒いで向かいの部屋から怒鳴られた話、そして斎藤さんの二人の娘達の話……。  斎藤さんは、年代もののタンスから娘さん達の結婚式の写真を出して見せてくれました。 『哀愁……』の下巻に、僕が克美荘を去る前に、斎藤さんの小学生の娘二人が、僕に歌を唄ってくれるシーンがあります。上の娘がまゆみ、下がゆみといいました。 「二人とも、帰ってくるたび、木村兄ちゃんたちがテレビさ出てた、なんて今でもいっているだよう。五月の連休には、まゆみが来るから遊びにおいでよう」  僕はきっぱり「必ず来ます」と答えて、その日は懐しの克美荘を万感の思いで後にしたのです。    2  前項は、一八年振りに訪れた、僕たちの青春の克美荘で、斎藤さんのオバチャンと再会した話をしました。  その時に、あの頃まだ小学生だった二人の娘さんが今では結婚して、それぞれ立派な子持ちになっているときかされ、僕はウヘェーッと仰天したのですが、姉の方が一一歳で妹の方が九歳だったのは一八年前なのですから、考えてみればこれはもう当り前のことなのです。驚いたのは、突然一八年前の世界にとび込んでしまった僕の錯覚というほかはありません。  その、上の娘さんであるまゆみちゃんが、五月五日の子供の日に、御主人と一緒に克美荘に帰ってくるというのです。  妹のゆみちゃんの方は、人なつこい、茶目っ気のある子で、よく僕たちの部屋に入り込んで来てははしゃぎ回っていたのですが、姉のまゆみちゃんの方は人見知りするタイプの大人しい子で、滅多には僕たちの部屋に来ませんでした。それでも、僕にだけは少しだけなついてくれていました。それというのも、克美荘での僕たちの荒んだ共同生活は近隣住民の生活の平穏、安寧秩序というものにかなりの脅威を与えていましたので、昼間司法試験の勉強のために一人で部屋に居ることの多かった僕としては、近所の子供にでも愛嬌を振りまいておかないと、世間の刺すような冷たい視線の前に身の置きどころもないような雰囲気というものがあったからではありますが。  まゆみちゃんは、部屋に遊びにきても普段はほとんど口をきかない静かな娘でしたが、歌を唄わせると本当に上手な子でした。それも恥しがって滅多には唄ってくれなかったのですが、僕が試験勉強の都合で克美荘を去る前に僕たちの部屋で唄った、都はるみの�涙の連絡船�は絶品といっていいくらい、子供の歌とは思えない情感のこもったものでした。  勿論その当時、カラオケなどはなかったわけで、まゆみちゃんは、丁度その頃僕たちが道路工事の現場から勝手に持ってきてしまった標識灯のチカチカランプをマイクに見立てて、僕のギターに合わせて唄ってくれたのです。そして、その日が僕が斎藤さんの二人の娘たちと遊んだ最後の日でした。  そのまゆみちゃんは、地元の江戸川女子高を出たあと、あるゴルフ倶楽部会社に事務員として就職したのですが、どこか雰囲気のある目鼻立ちとその美声が認められたのでしょう。何年かして、その会社が経営する赤坂のクラブに歌えるホステスとして抜擢され、突如水商売方面に進出、ここで生来の才能を如何なく発揮することとなったのです。何年か前、仲間と飲んでいた時に、克美荘の頃のことが話にのぼり、椎名誠が、「あの上の娘の方は、水商売に向いてたよ。そっちの方に進んでれば絶対成功しているぞ」といったことがありました。正にその想像は的中していたわけです。  クラブの歌姫は、やがて店長の島田さん(彼女はなぜかこの人を今でもサーやんと呼んでいます)に見染められ、二人は激しい恋に堕ちます。ごく自然なコースとして二人は結婚、ということになるわけですが、このサーやんの実家が茨城県八郷町。そこで、二人はお店を辞め、手に手を取ってサーやんの実家の近くに袋物(バッグやポシェット)の小さな工場を始め、御両親と一緒に仲良く暮しているということなのであります。  五月五日は、夜七時ごろ克美荘の斎藤さん宅に伺う約束となっていました。当初は一人で行くつもりだったのですが、『克美荘に斎藤のオバチャンの生存確認さる』の報は仲間うちにかなり拡がっていて、僕とまゆみちゃんの再会シーンについては、「是非正確な記録を取らせて頂きたい」などと、記録係を志願する人まで現われ、結局二名が同行することとなりました。一人は、芸能記者兼フリーライターの木村万里さん(当日は写真担当)、もう一人はそのお友だちで単なるミーハーOLの南里ちゃん(ヨイショ兼フィルム入替担当)というわけです。  その日は、夕方まで調布で会合があり、小岩についたのは、七時を少し回ってしまいました。小岩駅前で待ち合わせた、克美荘第二次調査団は、期待に胸を膨らませながら、黙々と克美荘に向いました。  街灯が斜めにぼんやりした光を投げるガラス戸の玄関をあけ、「遅くなりましたァー」と階段の上に声を掛けると、キャンキャンと弾けるような犬の鳴き声の合間に、「あ、来たみたいよ。どうぞォー」という、若い女の声。どうやら、まゆみちゃんらしいと階段を昇っていくと、そこで、マルチーズらしき小犬をあやして廊下に屈み込んでいる三〇歳ぐらいの女と、いきなり顔が合って、実にあっさりと「あ、ども、ども」などと、素気のない挨拶をしてしまいました。ちょっとした偶然から一八年振りに男と女が顔を合わすのですから、もう少しマシな言葉は出ないものか、と少し自分にイラ立ちながら。  まゆみちゃんには、いくらか少女時代の面影が残ってはいましたが、すっかり綺麗になって、只今人妻真盛り。やはり、年月は確実に流れていたのだ、と思い知らされる僕でした。  斎藤さんの部屋で、先日訪れた時には昼間で会えなかった斎藤さんのオジチャンとまゆみちゃんの御主人サーやんに同行の二人を紹介がてら御挨拶していますと、斎藤さんのオバチャンが入ってきて、「さあさあ、隣の部屋に用意ができたから、あっちさ移って」というのです。  学生すら高級マンションに下宿するという昨今では、老朽化した木造アパートであるわれらが克美荘の借手はさすがに少なく、半分近くが空室になっているそうで、斎藤さんは空室になっている隣室を応接室がわりに使っていたのです。ちなみに、昔、僕達が住んでいた一階の部屋は、一日中全く日の当たらない最悪の一室なので、もう一〇年近くも空室のままだそうです。  オバチャンのすすめるまま、隣室に足を入れてみてビックリ! 部屋の中央にはスタンドマイクがセットされ、壁際には、点数表示板付の業務用大型カラオケセットが、どどーんと不敵な笑いを浮かべて座っているのです。  思わず、ウームと唸って部屋の中に立ちつくす僕と同行記録係約二名に、オバチャンは「これは唄ったやつの録音もできるかんね。今日は皆さんでバンバンやって下さいよ。アタシもやりますかんね」と早くもルンルン気分で迫ってきます。その昔、小沼さんという中年婦人が独りひっそりと暮していた、「克美荘」のうちでは割合に日当りのよい二階東角のこの一室は、一八年の歳月を経て、なんと一大カラオケミキシングルームへと変身を遂げていたのです。  やがて、テーブルに水割りが配られ、皆で酒盛りとなりました。そして、昔話に花が咲きます。まゆみちゃんは、引込み思案だった子供のころとは逆に、とても快活で、同じ人とは思えないほどでした。女性はやはり大きく変わるのでしょうか。 「あたし、木村兄ちゃんがあのころギターで、裕次郎の�二人の世界�を唄ってたのを良く憶えてるんだよね。兄ちゃんが部屋で唄ってるんだけど、あたし恥しくって入っていけなくって、よく階段のところにしゃがんでこっそり聴いてた。今日は、アレを絶対唄って欲しいんだよね」  そういえば、丁度その頃、裕ちゃんの�二人の世界�が大ヒット。その年の暮れ、裕ちゃんが唄っているのを、近くの「松の湯」のテレビで湯上がりの扇風機の風に当たりながら見ていた、そんな記憶が急に甦るのです。  そんな話がきっかけで、僕が�二人の世界�を唄ったのを皮切りに、オバチャンが�矢切りの渡し�、まゆみちゃんが�釜山港に帰れ�と続き、「今日はカラオケオペレーターに徹しますから」といっていたサーやんまでたまらず夫婦のデュエットで参加、という次第で、その夜はオバチャンやまゆみちゃんと静かに昔を語ろうなどという私の当初のもくろみはどこへやら、一転、一八年振り再会記念歌謡カラオケ大パーティーとなって、いとも賑やかに更けていったのです。  最後に僕のリクエストで、まゆみちゃんが都はるみの�涙の連絡船�を、玄人裸足の素晴らしいのどで、情感たっぷりに聴かせてくれたことは、いうまでもありません。まあそのすばらしさたるや、この本にソノシートがつけられれば、是非皆さまにお聴かせしたいほどです。カラオケ愛好者としては人後に落ちないこの僕がいうのですからそれはもう大変なものなのです。  そうこうするうちに、夜も一〇時を過ぎ、そろそろおいとましようと、小用に立ちました。その時には、薄暗い廊下を歩きながら、外見は変わらないようでも、克美荘も中味は随分と変わってきているんだなあ、と少し複雑な思いがしていました。ところが、トイレで用を足そうと身構えた直後、あの何ともいえない汲取り式トイレ特有の臭いがツーンときたのです。それは、目がシバシバする程の迫力でした。人の世は移れども、克美荘はやはり昔と少しも変わっていないのだ。僕は感無量の思いで、懐かしいその臭いを胸一杯に吸い込んだのでした。  克美荘をおいとましてから、オバチャンとまゆみちゃんに、少し近所を案内してもらいました。昔のまま残っていた松の湯、大分変わったけど新中川放水路の土手、そして僕たちが近所に気がねなくバカ騒ぎするために夜中によく出掛けた引き込み線鉄橋の橋桁、まるで名所旧跡巡りでもするように、僕たちはガイドの二人にくっついて町内をぐるぐると歩き回りました。  ところで、僕はどうしても西小岩の町内で前々から一度訪ねてみたいと思っていたところがありました。  椎名誠『哀愁の町に霧が降るのだ』の中巻をお読みの方は御存じと思いますが、僕と椎名はある夜寒に酒が足りなくなり、近くの酒屋からビールをドロボーして飲んだことがあったのです。椎名の本では差し障りを考えて「大和屋」ということになっていますが、本当は確か「沼野」という屋号だったはずです。オバチャンの先導で沼野酒店を探しあてることとしましたが、そこには意外な事実が待っていたのです。    3  前項は、五月五日の子供の日に僕たちが青年時代をすごした克美荘を記録係二名とともに再度訪れ、一八年ぶりに西小岩一丁目の歌姫まゆみちゃんと再会したこと、その帰りついでに、斎藤のオバチャンの案内で、町内の旧跡(?)巡りをしたところまでお話ししました。  そして最後に僕は、一八年前の深夜、椎名と二人でビール数本を盗んだことのあるあの酒屋を目ざしたのでした。オバチャンとまゆみちゃんに先導してもらえばすぐにわかるのですが、まゆみちゃんが、「兄ちゃんが一人でわかるか探してごらん」というので、僕が先頭に立って、夜の西小岩一丁目を奇妙な調査隊がゾロゾロと進むことになりました。  めざす酒屋は線路の近く、という記憶ははっきりしていましたので、すぐに探し出せるつもりでしたが、それでも付近の移り変わりはやはり激しく、なかなか簡単には見つかりそうもありません。そのうち、「みまつ湯」という銭湯の前に出ました。この風呂屋は昔の風情を保っていました。その当時、克美荘の周囲には、前回で紹介した松の湯を含め三つの風呂屋があり、僕たちは松の湯をメインにしていましたが、いつも同じところばかりだと飽きてしまうので、こちらのみまつ湯の方にもときどき来ていたのです。昼なお暗き六帖一間に何人も雑魚寝同然で暮らしていた僕たちにとってみれば、風呂屋のペンキ絵(浴槽の奥の壁に描いてある、例の偉大なる壁画[#「壁画」に傍点]のこと)が、美保の松原より眺望せる富嶽の図であるか、松島とおぼしき浮島の、沖に白帆がチラホラかすむの図であるかは、その一日をしめくくるうえで極めて重要な要素をなしていたわけなのです。  件《くだん》の酒屋は間違いなくこの風呂屋の近くだったはず、と目を凝らして周囲を見回すと、どうもこの辺りと思う一角が工事中で、建物がすっかり無くなり、その跡に鉄骨が組まれています。 「アレ、もうここまで工事進んでたんだネェ」と後で斎藤のオバチャンの声。一八年前のビールドロボー事件の被害者であった沼野商店は、旧木造平屋建店舗を取壊し、鉄筋コンクリート三階建の立派な店舗に生まれ変わろうとしている最中だったのです。  沼野商店は改築中のため、隣りの家で仮店舗営業しているようでした。隣りの方は、昔のままの木造で、現在工事中の部分と、隣家との間に、赤茶けた古い引き戸の通用門が残っていました。 「お! これだ」  と僕は思わず叫んでしまいました。  一八年前のあの夜、ビールは、この木戸の向こうに積んでありました。勿論木戸には中から鍵が掛けられていました。ビールを盗むには、僕か椎名のどちらかがこの木戸を乗り越え中から鍵を開ける必要があったのです。門の高さは僕たちの背丈に余り、これを乗り越えるには相当の懸垂力を要することが予想されました。ことは知力よりも腕力に属する問題です。当然のことながら、椎名誠が先発隊として直ちにこの木戸の上部に跳びつき、懸命によじ登ってこれを乗り越えました。その時、椎名の膝が何度か引き戸にぶつかってドスン、ドスンと鈍い音がし、その都度外で見張っていた僕は心臓が縮むような思いをしました。そんなことなどがこの裏木戸を見た途端、昨日のことのように甦えってきたのです。  折角の機会です。僕は、この沼野商店の店主にお会いして、御挨拶申し上げて行こうと考え、斎藤のオバチャンに取次ぎを頼みました。オバチャンは「あ、いいよ」と気軽にいって、仮店舗に入り込み、「近くの斎藤ですけんど、あんたじゃなくて、二〇年くらい前のことサ知ってる人はいないかネェ」などといっています。  しかし、ここで僕はハタと考え込んでしまいました。  御挨拶を申し上げる、とはいっても、これは、昔お店に奉公をしていた少年が、やがて長じて立派な酒問屋の番頭に出世、久し振りに昔お世話になった旦那様に御挨拶——というようなケースでは全くないわけです。あくまでも、こちらはレッキとしたビールドロボーであり、相手はそのレッキとした被害者という立場なのです。一八年前のことを知っている関係者が出てきたとして、一体全体僕はどういう「挨拶」をすればよいのでしょう。「どうも、あの節はタダでお世話になりました」というのもおかしいし、「今後もよろしく」などといっては、ますますカドが立ってしまうに違いありません。  勿論、僕たちがこのようなビールドロボーをやったのは、お酒が飲みたかったこともありましたが、度胸だめしというか面白半分というか、そんなアソビの要素が動機の大部分を占めていたのです。それに、かなり酔ってもいました。しかし、そうはいっても、この行為は正真正銘の窃盗行為、まともにいけば刑法二三五条というものにより一〇年以下の懲役に値するシロモノなのです。犯行後既に相当の歳月が流れ、この事件は迷宮入りのまま公訴時効が成立していますので関係当局も捜査を断念してはおりましょうが、それにもかかわらず、これはその時点では、まことに由緒正しい犯罪行為そのものだったわけであります。従って、ここでお店の方とお会いする以上、もとドロボーの一味として、単にゴアイサツなどというもので済まされるわけはないのです。僕の頭の中で、謝罪、贖罪、懺悔、懲役、糺弾などという文字がクルクルと回りはじめました。 「旦那様ア。申し訳ございやせん。あっしが一八年前、お店の家尻を切った盗人の片割れでございやす。悪い仲間に誘われたとはいえ、本当に取り返しのつかねえ悪いことを致しやした。あれから一八年間、一日たりとも心の安まる日はございやせんでした。こうして手をついてお詫びを致しやす。どうか、打つなと蹴るなと、存分にやっておくんなさい」  しかしこれでは、何だか番場の忠太郎風イメージで固まりすぎて、相手も少し困るかもしれないなー、などと考えているところに、お店の中から、四〇半ばの、倍償千恵子バリの感じのよい女性が怪訝《けげん》そうな顔で出てきました。心優しそうな御婦人が登場したので少しホッとした僕は、早速「実は、昔この近くに学生で下宿していた者なんですが、一八年ぐらい前に、お宅にビールドロボーがはいったのを御存知の方はいらっしゃいませんでしょうか」と切り出しました。 「えっ、それならよく憶えていますけど。あんな恐かったことは初めてでしたから。でも……」それがアナタとどういう関係があるのですか、といいたげに、倍償千恵子風はますます不思議そうな顔をします。 「実は、その時のドロボーの一人が僕なんです」というと、彼女は「えーっ」と絶句して、それから弾けたように笑い出しました。彼女はどうやら、この沼野商店にいた何人かの姉妹の一番上の姉さんらしいと見当がつきました。彼女の話では、突然夜中に裏でガサゴソと何人かの人の気配がし、後で恐る恐る行って見たら、裏の入口の鍵が壊れていて、サントリービールが四本盗まれていた、というのです。 「ともかく、お酒だけ、それも少しだけ盗んでいくドロボーというのは滅多にないことでしょう。珍しいドロボーもいるもんだ、というのでしばらく近所でも評判になったんですよ。でもやはり気持悪いですから翌日さっそく、門の上に金網を張って、入れないようにしたんです」  なるほど、そういわれてみれば、例の裏木戸の上には、錆ついた金網が半分ひしゃげたように貼りついていました。 「ところで、今は何をしてらっしゃるの」  倍償千恵子風の質問は急に核心に迫ってきました。一八年前のビールドロボーは、今一体何をやっているのか、はたして立派に更生の道を歩んでいるのか、被害者側として当然抱くべき好奇心です。  僕が「あの、べ、弁護士をやっています」と口ごもりながらいうと、一八年前の被害者は口を押えてクククと笑いました。この笑いに勇気づけられて「あの時のもう一人の相棒は今、作家をやっています」とダメを押すと、今度は体をよじり二、三歩よろけるようにして大きな声で笑いました。その作家が、後に、盗んだビールメーカーのコマーシャルに出てしまった、というのは、実に不思議な因縁というべきでしょうか。僕もついついつり込まれて大声で笑ってしまったのです。そして、「何かあったら何時《いつ》でも相談して下さい。お詫びのシルシに何でも無料相談にのりますから」と名刺を渡し、「記念に」と木戸の上で錆びついていた金網の一部を頂戴しました。  いずれまた近いうちに椎名や沢野をつれて克美荘にお邪魔することを約束して、この日は斎藤さん親子ともここでお別れしました。オバチャンは別れ際に「今度三人で来る時までに、一階のあんたたちの住んでた部屋を掃除しとくかんね。そうすればあの部屋で一杯やれっから」と嬉しい約束をしてくれました。 「イヤー、今夜は終始エンタテインメントでしたネー、パフォーマンスでしたネー」とミーハーOLの南里ちゃんが軽薄っぽくいい、「まゆみちゃんを歌手で売り出す方法はないもんですかネェ。あれはチョイト凄いですよ」と木村万里記録係主任が満足そうにいい、「ビールを盗《や》ったのがモロにバレてたのにはマイッタよ。やっぱり、ビール代は今度来たときにでも返した方がいいだろうなァ」と僕は興奮気味にいい、三人はすっかり人通りの少なくなった線路沿いの道を足早に小岩駅に向かいました。  その時、飲み屋が立ち並ぶ道の左側の暗がりから、学生らしい三人組が肩を組み、もつれるような足どりで僕達の前を横切りました。そして真中の一人が突然電柱のそばに崩れるように仰向けに倒れ込んだのです。「大丈夫か、オイ」「胸のボタン開けてやれ。どうせもう吐くもんもないだろうけどな」肩を貸していた二人が少し心配そうに倒れた男の顔を覗き込んでいます。  僕はいつの間にか立ち止まってしばらくボーッとその様子を眺めていたようです。「晋介さん、行こうよ」、南里ちゃんが、変に関りになっては困る、という風に、眉をひそめた小声で僕を急《せ》かせました。 「う、うん」と再び駅の方に歩き始めましたが、どこかに一八年前の僕たちの影を見たような気がして、僕は何度も後を振り返ったのでした。 [#改ページ]   ラジオから浪曲が流れて �浪曲�というテーマで何か書け、というお達しである。だが僕は決して浪曲道などに明るいわけではない。だから、浪曲についてウンチクを傾けることなど到底できない。しかし、それを承知であえてこの僕に、このテーマで原稿依頼が来た、ということは、編集者のねらいも、おのずと違うところにあるのに相違ない。僕は、そのあたりのウラを探るべく、数日間「NHK浪曲名作選」のテープに耳を傾けてみた。広沢虎造「次郎長伝・石松三十石船道中」、寿々木米若「佐渡情話」、三門博「宝の入船」……。どれもやはり文句なく面白い。なんで、こんな面白いものが、今の時代にウケないのであろうか、というのがまず生じた問題意識である。  ちょうど遊びに来ていた、今春、大学入学が決まったばかりの少年(?)と我が家の二人の娘たちに浪曲のテープを聞かせた。若者たちはしごく迷惑そうな顔をして、「何分かかるの」と、終わる時間をまず尋ねた。だいたい何を言っているか言葉もわからないと言いながら、バリバリ、センベイなどをかじっている。そのうち、これ見よがしに山下久美子だのクワタバンドだののレコードジャケットを読みはじめる。  折しも松平国十郎の「元禄曾我物語」はクライマックス。松の廊下で吉良に斬りかかった浅野内匠頭を抱き止めた梶川与惣兵衛に、老中土屋相模守が「曾我物語」を語り聞かせてその後に、 [#ここから2字下げ] (浅野内匠頭の刃傷を)止めたが悪いというではないぞ! 止めたが悪いというではない。だが浅野殿のうらみ重なる心中を察し、思いをとげさせたその上でなぜ止めようとはしなかったのだ。武士の情けを知らぬ奴…… [#ここで字下げ終わり] と思わずうなる名調子。胸熱くなる名場面。  センベイをかじっている場合ではないっ! あくびをするなっ! 鼻歌などうたうとは何事だっ! 貴様らそれでも日本人か、この、人の情を解せないとは、なんたることぞ……。  床をたたいて涙ぐんでも、子どもたちは、ポカンと口開け、なにがなにやら理解もできぬ。ああ情けなや情けなや。頼むから、お願いだから、ちょっとでも、ここだけでいいから、もう少し真剣に聴いてもらえぬものであろうか、梶川殿オッ!  ついついこちらは土屋相模守に感化されてしまうのだが、子どもたちには全くシカト(無視)されてしまう始末であった。  浪曲は大正時代がその全盛期であったという。その時代と比べれば生活環境も大変な様変りをした。人情の機微も変わったのだろう。僕らだって「戦後のやつらは……」と言われた。ましてや新人類に、昔ながらの浪曲をそのままわかれというのは無理なことかもしれないのだ。考えてもみよう、浪曲を聴きながら受験勉強などできるものではない。言葉の意味がわからなくては聴いている価値がないからだ。サザンオールスターズのように、歌詞が聴き取れなくてもリズムとフィーリングだけでのせてしまうというわけにはいかない。ながら族(古いコトバですねェ)と浪曲は相いれないのだ。  ま、サザンも、それなりに味がある。今の生活感覚というのはこのようなものなのか、と昭和二〇年生れは鼻白んでしまう。  しかし、しかし、浪曲にうたわれている時代は、ほとんど江戸時代ころのことである。考えてみれば、僕らにとってだって、本来少しもとっつきやすいシロモノではなかったはずだ。それにもかかわらず、僕らの世代は、わずかながらも、浪曲を娯楽の一つとして楽しむすべを知っている。この違いは何なのか。  毎日毎日、薄暗くなるまで外で遊びほうけていた子どものころ、「ご飯だよー」と呼ばれて帰ってくると、ラジオからは復員ニュースが流れていたりした。たいてい、どこの家にも布張りのラジオが棚の上あたりに置いてあり、スイッチは大人でないと届かなかった。だから、子ども向け連続ラジオドラマの「笛吹童子」や「赤胴鈴之助」を聴くには、上の姉や母などに頼んでチューニングを合わせてもらわなければならなかった。  なかなか周波が合わずにいつまでもピーピーガーガーいっているラジオを見上げ、「早くしないと始まっちゃうじゃないか」と、つまみを回してくれている姉に向かって地団太を踏みながら文句を言ったものだ。僕の要求が受け入れてもらえるのは、夕方のこの一五分間の番組だけだったのだから、これはかなり真剣だったのだ。  終戦後の何もない家で、ラジオが流す娯楽番組は、それでも少しずつ平穏な生活になっていく促進剤の役目を果たしたのではなかろうかと思う。  父親が聴く浪曲にも、一緒になって耳を傾けた。その当時、「浪曲天狗道場」という、素人参加の番組も人気が高かった。もちろん全部わかろうはずもなかったが、続けて聴くうちにそれなりに面白さがわかりだし、やがて夢中にもなった。広沢虎造の全盛期で、森の石松の観音堂の場面を演るときなどは、思わず知らずハッタと空中をにらみ、正座したひざの握りこぶしに力が入ったものである。  七色の声とほまれの高い二代目天中軒雲月こと伊丹秀子の杉野兵曹長の話や乃木将軍正行寺涙の墓参りなどは、たまたま中途から聴いたのでは、誰が演っているのか見当もつかない。子どもの声、兵隊さんの声ももちろんいいが、老人の声は絶品で、その声色のみごとさは、岸田今日子も顔色を失うだろう。  ※[#歌記号、unicode303d]佐渡へ佐渡へと草木もなびく……とうたいだす「佐渡情話」の寿々木米若は、初めのころこそ新潟なまりに、「こりゃちとついていけないかナ」と思ったものの、恋に焦がれて狂っていく女が切々とうたうおけさ節はやはり秀逸だった。  しばらくすると姉たちは映画音楽のレコードを聴き、兄はジャズを聴きはじめた。  末っ子の僕は、いつも�オミソ�で、一緒に何でも聴いていた。父親がいつもふろでうなる長唄もうろおぼえに覚え、三味線も父の見よう見まねで、門前の小僧のごとく、なんとはなしに音を出していたし、兄のギターをこっそり隠れていじっていた。  偏見なく�大人のうた�に触れて育っている。したがって、五〇年代、六〇年代のスタンダードナンバーはほとんど英語で歌詞を覚えているし、小唄、俗曲のたぐいも多少はやれる。清水次郎長伝の筋はだいたい知っているし、三門博の「唄入り観音経」の一節ぐらいは、うなることもできる、ということになる。日本の古きよき時代の音楽のよさ、楽しさをそこそこ�わかる�という範囲で、日本の旧大衆文化を僕は継承していることとなるのである。  それに比べてこの子たちときたら、テレビ番組となれば、バッチリとチャンネル権を主張する。あまりにくだらない刑事物ドラマなどを長々見ているので、たまりかねて親の権威を回復すべく、ハッタと娘たちの目をにらみながらニュース番組へチャンネルを変えたりすれば、娘たちはプイと二階の自室に消えてヘドホンかぶりをきめ込むのみ。  ここに明白な違いがある。  旧時代の大衆文化であった浪曲が、僕たちの世代まではようやく娯楽の一種として生きながらえたのは、親の権威が確立していたことと同時に、娯楽の源泉が、七球スーパーのラジオ一つにすぎなかったこと、にあったのである。  それでは、この人情と躍動感にあふれる浪曲は、親の権威が衰退し、娯楽の源泉が多様化した現代の若者たちにはもう忘れ去られるほかないのであろうか。それは、あまりに悲しすぎる。  浪曲は、日本人の人情の機微を織り込んでつくり上げた日本芸能の究極なのである。  浪曲は、古代、『三経義疏《さんぎようぎしよ》』などをもとに神官、僧侶が読み上げた祝詞、祭文《さいもん》が始まりだったと聞く。それが三味線を使った説経節に発展し、更に�チョンガレ�と称するものになった。�チョンガレ�とは、義太夫の聞きどころをちょっと借り、講釈の血沸き肉躍る、たたみ込むようなリズムのよさをちょっと借り、芝居の物語性をちょっと借り、落語の笑いをちょっと借り、という�ちょっと借り�のなまりから称されたというものである。この�チョンガレ�が関西地域で発展し、�浪花節�と呼ばれるようになったという。浪花節は大流行し、各地に流れ、その土地その土地の風土の中で大成され、現在の�浪曲�に至ったのだ、そうである。大衆の喜ぶものとあれば貪欲に(ある意味では無節操に)あらゆる分野からいいところをとり込んでつくり上げられた浪曲に、欠けるもののあろうはずがない。日本人の感性を知りつくし、これでもかこれでもか、とサービス満点に聞かせるのである。  日本の浪曲界はこの先人の貪欲さに学び直さねばなるまい。と、ここまで思い至って、ハタと一昨年の夏の記憶がよみがえってきた。  一昨年の夏のある日のこと、東京は錦糸町駅前で河内音頭大会が催される、というので友だちと出かけてみた。友人の解説によれば、もともと河内音頭大会は浅草で開かれるはずだったところ、あちらのほうは�リオのカーニバル�に乗り換えたため、急遽、錦糸町で催されることになったのだそうである。やぐらの上段には、次々に河内音頭のスター(?)歌手が老若入り乱れて立ち、やぐらの周りは踊り手があふれ、活気がみなぎっていた。やぐらの下段と、その周りの中央のほうには、本格的な浴衣姿の踊り手が、伝統的なスタイルの振りで調子よく踊っていた。しかし、僕が注目したのは、外側のほうの踊りの輪である。中央側の輪が左回りに流れていくのに対し、外側の何列かの輪は逆方向に回り、その振りも全く違ったものだった。多くは若い人々がカジュアルな洋服姿で入り乱れて踊っている。明らかに買い物帰りと見てとれるOLや若い主婦も混ざって、長い手足を、あるいはカッポレのごとく、あるいはディスコダンスのごとく、うちふり跳びはねて踊っている。友人の解説では、これが新しく発明された�錦糸町マンボ踊り�というものだそうである。実に楽しそうである。僕ももう少し若ければ今すぐにでも輪の中に飛び込んでいきたい。そんな不思議な迫力に満ちた雰囲気があった。その後、この錦糸町と河内音頭の結びつきがどうなったのか、僕は知らない。しかし、浪曲が今後にその生命力を保持する一つのカギが、あの�マンボ踊り�の熱気の中に隠されていることだけは、まちがいのないことだ、と僕は思うのである。 [#改ページ]   事件その二[#「事件その二」はゴシック体]  夜毎のカラオケ  飲酒篇[#「飲酒篇」はゴシック体] [#改ページ]   八丈島のロックンロール    1  私は、夏の夜の一時のあやまちから、町議選の応援のため、八丈島に乗り込むことになりました。私の応援する山下|浄文《きよぶみ》さんという人は、毎夏、椎名誠の率いる、いともあやしげなる探険隊が八丈を訪れるとき、一番たよりになってくれる人で、泳ぎづりの名人でもあります。私たちは、島の人と自然にとけ込んだこの偉大なる町会議員に「八丈島のヘミングウェイ」という称号を、とうの昔に与えているわけなのです。  もちろん、今年の夏も、「あやしい探険隊」は二〇余名の規模をもって八丈に上陸し、八丈島のヘミングウェイ(この称号は長すぎるので、紙数節約のため、以下「8ヘミ」と略称致します)の御厚宜御厚情に甘え、激しくもおどろしく、あやしくも哀しい、三日二夜というものをすごしたのです。  その一宿一飯の仁義をはたすべく(正確には、私の場合、今日までの通算で五四宿一三六飯四二オヤツぐらいの仁義になるのですが)、私は8ヘミの推せん人となりました。というのも、今夏の八丈探険の大ヤキ肉ビアパーティが、終盤に至って大いに盛りあがり、火吹きの長谷川隊員先頭に、正に狂気乱舞のそのさなか、静かに島酒の一升ビン片手に私のとなりに座った8ヘミが、「ま、センセ飲みやれ」と私のコップに酒を注ぎ、私が、酔余うろおぼえの島コトバで「オウ、ヨッキャ、ヨッキャ」などとこれに応じたのが間違いのもとで「今度の選挙は、推せん人になってたもれヨオ」「オウ、ヨッキャ、ヨッキャ」ということになったというのがコトの真実ではあります。  さて、このたび応援のため、八丈にきてみますと、当地では、8ヘミのポスターが至るところに貼りめぐらされ、何と彼の写真の下には、推せん人として私の名前が、仰々しく載っているではありませんか。酔った勢いで引きうけた者にとっては、この情景はまことにオソロシイものであります。  八丈町の議員は定数が二〇名。そこへ8ヘミを含む現職一八名、新人二名の立候補が予定され、今回は無投票で決まり、というのが大方の予想でした。立候補の締切りは九月二九日。前日までに予定の二〇候補が届出をすませ、まずは予想どおりの顔ぶれで、二九日夕刻には各候補とも選挙事務所で乾杯、これで「ヨッキャ、ヨッキャ」となるはずでした。  もちろん、八丈島町政始まって以来の無投票を回避すべく、あと一名を立候補させる動きもありました。しかし、同時にこれを制する反動も強く、後で聞いたところでは、少しでも立候補のうわさのたった人の家には「アンでオマイが出るかヨー。オマイが出ても、一七票しか取れんなかノー」というようなイヤガラセ電話が殺到したということです。  二九日の昼までは何ごともなくすぎました。ところが、各候補とも、クサヤをかじりながらの夕方の乾杯が刻一刻と近づくのを待つばかりと思ったその締切直前、一人の男が突然、二一枚目の立候補届を町役場に提出したのです。二一番目の男Pさんは、建設業を営む人で、政治は全くの素人。普段は無口で非常に気弱な人物だが、酒が入るとメッタヤタラに元気がでて、一たび口を開くと約三〇分間、天空に轟くような大声を持続的に発し、周囲を圧倒する、というどうもかなり風変わりな人のようなのです。届を出す時には、だいぶ足元がフラついていたというウワサも、あちこちで耳にしました。  かくして、Pさん出馬の報は、数分の間に島中を走り、夕方の乾杯のツマミとなるはずだったクサヤの注文は全島一斉に取消され、クサヤ業者はあまりの事態の急転になすすべをしらず、夕暮せまる工場の片すみで、唇をふるわせながらポリバケツをケとばしたのであります。  私は、投票になったことを東京で8ヘミの奥さんに電話をして聞いていました。8ヘミの奥さんは、八丈共立歯科診療所というところで、事務長をやっている百里子さんという小柄で可愛らしい人です。島内ではめずらしい、福岡県の出身者で、島に嫁ぐときまったときには、母親は「なんで、そぎゃん鳥もかよわんごたるとこば、あんたが行かんばならんとネ」と泣いたそうです。 「投票になっても浄文さんは大丈夫なんでしょう」ときくと、 「でも、Pさんが、無風選挙を打破したとかいうことで妙に人気がでて、台風の目みたいになっているんです。木村センセイも早く応援にこないと、ウチの人はあぶないですよ」 と電話のむこうから百里子さんの心配そうな声がかえってきます。 「それじゃ、一日も早く応援にかけつけます」 といったものの、折悪しく、一〇月一日から三日までは、立川高島屋で椎名誠の「おもしろかなしずむの世界展」というのをやっていて、なぜか私もこれを手伝うハメになっていたので出掛けられず、八丈についたのは、投票日の前日の四日になってしまったのです。 「センセ、遅いだージャ。浄《キヨ》が危ねーダラ」 「山下浄文選挙事務所」と書かれたチョーチン型の看板の下がる8ヘミの実家につくと、選挙責任者の大沢光男さんが私をみつけて、大声で怒鳴りました。  光男さんは、中之郷部落で大光荘という民宿をやっていて、毎夏私たち探険隊のためにモーレツな低料金でサービスをしてくれる、とても大切な人で、8ヘミのオジにあたる人です。 「すみません、ちょっと椎名の仕事を手伝ってたもんですから」  そこへ丁度、8ヘミをのせた宣伝カーが帰ってきました。車からおりた8ヘミは、真黒に日焼けした顔をくずして、「ヤー、いそがしい中ごくろうさんです」 「どうも、遅くなっちゃって。情勢はどうなの」 「けっこう厳しいよ。オレが最下位だというウワサもあるし」  8ヘミは、私と同じ三八歳。もともと長老の支配していたこの町で、三〇代で町議選に立つということは、それだけでも大変なことです。事実彼が唯一人の三〇代候補者なのです。8ヘミは今度が三期目で、前回の時は、歯科医不足に悩む八丈島民のために歯科診療所を創るという公約をかかげ、三年前にこれを実現しました。百里子さんが事務長をやっているところがそれです。八丈は虫歯が多いわりに歯医者が少ないので、申込んでも一年半も待たなければ治療がうけられず、急ぐ人は、東京まで出なければならない、という実情でしたから、8ヘミがやったことは、なかなかすごいことだったのです。  しかし、そういう実績があるから当選するというほど島の選挙は甘くない、と8ヘミはいうのです。八丈島の選挙は、同族選挙の色あいが強く、少しでも親戚を多く味方につけた方が有利なのです。前回の時にはある新人候補が危ないというウワサでした。ところがそのオジに当る人が悲観して自殺しかかり病院にはこばれたというニュースが伝わるや、ドッと親戚の同情票が集まって高位で当選したそうです。そして今度は、余り議会では発言したこともないある高齢の候補に、もう次はでられないだろうというので、同情が集まっているというのです。事実、この候補は高位で当選しました。八丈島の選挙には、こういうマカ不思議なところがあるようです。  少し休憩したあと、光男さんの指示で、私と、8ヘミ、百里子さん、洞口さんの四人が宣伝カーに乗り込み、約六時間島中を回りました。洞口さんは、8ヘミの向いに住む美しい白髪の老人で、8ヘミをわが子のように可愛がっている人です。  何としても、われらが8ヘミを落すわけにはいきませんので、私も宣伝カーのマイクをとり、島の有権者の皆さんに8ヘミの御支持を大いに訴えたのは勿論のことです。しかし、なにぶんにもなれないことなので、「ヤマシタ、キヨブミ」というべきところを「ヤマシタ キヨシ、ヤマシタ キヨシ」と絶叫し、大方の有権者の皆さんの失笑をかったのは、何としても残念なことでした。  明けて五日は投票日。  この日は、特にすることはないので、百里子さんの案内で食虫植物園を見に行ったりしてのんびりしましたが、前日長時間、宣伝カーの上で手を振るという作業を行なった悲しい後遺症で、ともかく人をみると手を振ってしまうのには、われながらおどろきました。  投票は夕方締切られ、開票の結果、8ヘミは二四二票を集め、一八位で当選しました。当選が確定した夜、簡単な祝賀会を身内だけでやりましたが、その席で洞口老人が、「浄はもっと票がとれてたはずだったのに、皆のがんばりがたりなかった。オレは悲しいヨウ」 という趣旨のことを早口の島ことばでいって突然泣きだし、これを当の8ヘミが、「皆がんばったから当選したんだヨー」と一生懸命なだめていたのがひどく印象的でした。  さて、この話は「メデタシ、メデタシ」ということで、これにてオシマイになり、私は翌日の飛行機で帰京するという筋書になっていました。ところが、8ヘミ当選の喜びもツカの間、その時すでに暴風雨をともなう大型台風二一号が、ジワッジワッと八丈島地方に不気味な接近をしつつあったのです。そして、それからさらに五日間、八丈島にとじ込められることになろうとは、夢にも知らぬ晋ちゃんだったのであります。    2  一〇月五日に選挙は終わりましたが、丁度六日の午後一時半に、八丈島簡易裁判所に事件が入っていましたので、私はこの事件をすませて、夕方の五時二五分発の最終便で東京に帰る予定にしていました。この事件は、島で酪農をやっているYさんの依頼で、さる高名な右翼のドンを相手に、八丈富士のすそ野に広がる広大な牧場の所有権を争うという、なかなかにしてロマンとファイティングスピリットにあふれた事件なのです。  私は、午前中に七島信用組合により、簡単な交渉ごとをすませて早めに裁判所に入り、法廷の原告席に腰をかけました。そして、やがて向い側の被告席で展開されるであろう相手方の弁論を予測し、徐々に高まろうとする緊張感を押しころしながら静かに記録をとり出し、窓の外に目をやりました。  ところで、皆さんの中には、そんな島の中に裁判所があるのかと驚かれる方があるかもしれません。伊豆七島では、八丈のほか、大島と新島に簡易裁判所があり、裁判官が一名常駐体制をとり、島民の皆さまの事件を心からお待ちしているのです。なぜ、心からお待ちしているかというと、事件がほとんどないのです。八丈の場合でも、本格的な民事訴訟事件は年に数件しか起こりません。では、事件のないときは裁判官は何をしておるのか。当然起こってくる疑問です。  一説によると、裁判官は天気のよい時はほとんど釣りをしているのです。裁判が起こされると、まず書記官はなつかしい友人にあったように、しばし目を輝かして訴状をながめます。そして「ちょっとお待ち下さい」といい残し、あわただしく車に跳びのり、島中の釣場に裁判官の姿を探し回ります。やがて岩場に腰をかけた初老の男を遠くにみつけ、 「裁判長ォー、事件が入りましたァー」 と道路から大声で叫ぶ。すると、その初老の男は、「おおそうかァー、掛かったかァー、デカした、今いくぞォー」 と、大魚を仕留めたかのような喜びの声をあげ、サオでバケツを打ち鳴らし、小踊りしながら岩づたいに駆けあがってくる、というような光景が八丈島では展開されているというのです。まさか、そんなことはないでしょうが、東京あたりでは何十件もの事件をかかえてウンウンうなっている裁判官とは、また一味違った悩みがありはしないか、と余計な心配をしてしまうのです。  話が少しそれました。私が、記録をとり出しながら、窓の外をながめると、裁判所のワキに植えられたワシントンヤシの並木の葉が、かなり激しくゆれはじめたのが目にうつりました。風です。これが悪い兆候だったのです。やがて定刻の一時半になりましたが、相手の弁護士は一向に姿を見せません。風はますます強さを増し、雨が降り出しました。  二時をすぎたころ、書記官から、相手方の乗った飛行機が八丈島地方強風のため欠航となったことを知らされ、結局この日の裁判は日延べになってしまいました。 「どうも、台風が近づいているらしいですよ。帰りの飛行機はどの便をお取りですか」  書記官が心配そうにききます。 「最終便です」 「最終便はプロペラですねェ。一つ前のジェット便に乗り換えた方が安全じゃないですか」  東京←→八丈島間は、一日六便の空の便りがあります。今までは、全便プロペラのYS11型だったのですが、今年からジェットのボーイング737型機が三便とぶようになったのです。ジェットの方が欠航の可能性が少ないので、親切な書記官の進言に従うことにし、すぐに八丈島空港に向いました。 「最終便以外は全便満席になっております」 「キャンセルは出ませんか」 「前のYS便が欠航になりまして、そちらのお客様を優先致しますので、一般空席待ちの受付は中止しております」 「で、最終便は飛びますか」 「天候次第ですので、今のところ何とも申し上げられません。まことに申し訳ありませんがしばらくロビー内にてお待ち下さい」  全日空のカウンター嬢の論旨は極めて明快であり、全くつけ入るスキはありません。こういうところで、 「何をいっとるかァ。キサマらは何の罪もない客の苦難を黙って見過すのか。責任者を出せィ! 小佐野はどうした!」  などと叫んでみても、所詮カチメはないのです。  やむをえず私は、空港レストランで生ビールを飲みながら天候調整の結果を待つこととしました。丁度そこへ歯科診療所の後藤先生と竹田さんが入ってきました。後藤先生は、二六歳の若い歯科医で、八丈島での三カ月の交替勤務を終え、事務員の竹田さんと一緒に東京の病院に最終便で帰るところだったのです。  ヒマをもて余した三人はレストランで、離島における歯科診療の将来はいかにあるべきか、八丈島における同族選挙の壁を破るには今後いかなる施策が求められているか、中日ドラゴンズを優勝に導くために近藤監督はどのような投手起用のローテーションを組むべきか、北の湖と若乃花と高見山では誰が一番先に引退するか、いま最高のギャグマンガはいがらしみきおか高橋春男かはたまた安藤茂樹か芳井一味か、それともやはり東海林さだおなのか。今年の菊花賞はほんとうにアズマハンターで決まりなのか、三遊亭円丈は落語の再興者となりうるのか、カラオケブームは音楽文化に何をのこしたか、ダンゴとオモチではどちらがエラいのか、ノミノスクネと弁慶と森の石松がスモウをとったら誰が一番強いのか、などなど、政治・文化・音楽・芸能・スポーツ・歴史・医療の全分野にわたる最も今日的な問題点について、狂気のすべてを投入し、徹底的総括を加えたのです。  私たちの充実した総括討議にもかかわらず、最終便が遂に欠航と決定されたのは、午後六時すぎのことでした。 「大した風じゃないみたいだけどなあ」  後藤先生は、レストランの真下にみえる滑走路をながめながら未練げにそういって「木村センセイは今日はどうするんですか」ときくのです。 「特に用事はないんですが」 「じゃあ、もう一人診療所のメンバーを呼んで、寮でマージャンをやるというのはどうでしょうか」  三時間余りに亘る討論の末、もはや語りあう気力もなえていた私は「その件に関しては何ら討論の余地はありませんね。直ちに実行あるのみではないですか」 と、決然としてこれに応じ、かくして八丈での島留め第一夜は、歯科医一名が新たに加わり、共立歯科診療所付属寮バス・トイレ・台所付四帖半、二階東南スミの間における、歯科医師会VS弁護士会対抗マージャン大会となって次第に更けていったのであります。  しかし、この段階での私たちの将来に対する見通しは極めて楽観的なものでした。よもや台風二一号が八丈島を直撃するとは考えてもみなかったので、ひたすら明るいアスを信じ、 「明日、もし風が強いようだったら、船で帰った方が安全ですかネ。あ、ぼくリーチ」 「いや、二便のジェット機なら楽勝ですよ。あ、それポン。横風でも一八メートルまでなら着陸可能だそうだから」  などとのどかにやっていたのです。  件の四帖半に寝乱れる歯科医約二名、弁護士約一名の耳に、連絡船ストレチア丸欠航の知らせがもたらされたのは、翌朝八時半ごろのことです。公衆電話で東海汽船に電話して欠航を確認してきたという竹田さんは「船がこの調子だと、飛行機はますますもってあやしいんじゃないですか」と早くも悲観的な見通しを出して、ぐったりと座り込みました。  それでも、東京発のYS11型一機、ジェット一機が八丈着陸に挑戦しましたが、断続的に降る強い雨と突風におそれをなし、八丈島の上をグルグル回っただけで、みんな尻尾を巻いてひき返してしまったのです。しかも天候はますます悪化し、台風は明日には八丈島直撃の可能性が強いという情報です。  ことここに至って、私たちは容易ならざる事態に直面している自らの状況というものを深く認識せざるをえませんでした。  空港で全便欠航の見込を確認した私と後藤先生、竹田さんはロビーにへたり込んでしまったのです。 [#ここから5字下げ] ☆     ☆ [#ここで字下げ終わり]  いつまでロビーでトグロを巻いていても仕方がないので、私は「渡哲也」に電話で相談をしました。勿論、八丈島に本物の渡哲也などいるわけはありません。私の古い依頼者で八丈島のQホテルの副支配人をしている人がシブミのある浅黒い顔だちのちょっとイイ男なので、私が勝手にこう呼んでいるのです。 「それはお困りですね。それでは今からお迎えに行きますから、とりあえずウチのホテルでお休み下さい。今日はお泊りになっても結構ですよ」  渡哲也は、早速空港まで車で迎えに来てくれ、私たち三人に、広い和風の一室を提供してくれました。 「地獄でホトケとはこのことですな」と後藤先生がいい、私たちは赤十字に救助された難民のようなホッとした気持ちになり、東京へ事情を電話で連絡し、風呂に入り、手足を延ばして横になって昨夜の睡眠不足の解消に努めたのです。  夕方食事のあと、誰いうともなく、昨夜のマージャンの続行をしようということになりました。一人メンバーが足りないので、私がフロントの渡哲也に電話し、適当な人をさがしてくれるようたのみました。渡哲也はともかく顔の広い人で、島で何か困ったときは、この人に相談すると何とかしてくれるのです。 「ハッハッハッ、御退屈ですね。先生方のお相手ですから、半端者では務まらないでしょう。少し腕の良いものをお探ししましょう。ハッハッハ」  すぐに卓が用意されました。 「なんか強いのをよこすようなこといってたけど、島のことだから大したことはないんだろうな」 「島には一軒も雀荘がないっていう話だしネ」  などといいながら待っているところに、 「お待たせバしました」とあらわれたのが、問題の三国連太郎風の男だったのです。  純良なる島民を一丁カモッてやろうと思っていたところに、眉のキリリとしまった九州なまりの黒いジャンパー男が現われたので、私たちは顔を見合わせ、これはちょっとまずいことになったのではないかと一瞬緊張したのですが、レートを少し安めにして、ひとまず戦闘を開始したのです。はじめてみると、三国連太郎風の手つきはなかなかのもので、やはり相当の打ち手と見うけました。しかし、第一ラウンド(最初の半荘)は、案に相違して三国連太郎風は一度もあがらず、他家にフリこむばかりで最下位、後藤先生のトップで終了しました。 (おッ、これは大したことはないゾ) という安堵感が私たちに芽ばえたのは当然のなりゆきです。 「イヤー、皆さんお強い。なかなかアガれんですタイ」 と三国連太郎風がニガ笑いすると、好調の後藤先生は、 「おタクはちょっとツキがありませんでしたねェ。まあ、ツキも実力のウチですが、ハハハハ」  などとすっかり悦に入って余裕をみせていました。ところが、第二ラウンドに入ると、三国連太郎風は途端に渋い打ち回しをみせ、軽くトップを奪ってしまったのです。  初回がマイナス二七、二回目がプラス二七となったこの黒ジャンパーのよく似合う男は、 「イヤー、助かった。ちょうどプラマイゼロになりましたか。それではちょっと用事がありますけん。ビールでも飲みんしゃって少しお休み下さい」というと、フロントにビールを持ってくるように電話して、しばらく中座をしました。  三国連太郎風が出ていくと、後藤先生は少し声をひそめ、 「ちょっと先生、これは接待マージャンの極致ですョ、コレハ。ボクたち何か大変な人を相手にしてるのではないですか」 と、先程のいきおいはどこへやら、すっかり真顔になって心細そうにいうのです。  そこに副支配人の渡哲也がビールをもって、 「戦況はいかがですか」といいながら入ってきました。私が、 「ボクたちがお相手しているあの人何者なんですか。ちょっとスゴイ人みたいなんですけど」ときくと、渡哲也は急に渋い顔をして「またやりすぎたんですか。先生のお相手だから手加減するようにキツーくいっといたんですが」と申し訳なさそうにいい、私たち三人は「やっぱり」と顔を見合わせたのです。  私が、十分手加減していただいていることを告げると、渡哲也は「それならよかった」といって、三国連太郎風の身上について話してくれました。それによると、三国連太郎風は博多で、ある「組」の相当な幹部だったのですが、ちょっとした事件にまき込まれて他人の罪をかぶり、現在執行猶予中の身。今は組をはずれて八丈島に来ているのだということなのです。 「ある人に頼まれて私が面倒をみていますが、礼儀も正しいし良く働きます。やっぱり半端じゃありません。一緒に風呂に入ってごらんなさい。立派な倶梨伽羅紋紋《くりからもんもん》ですよ。もともと本職は花札だそうですが、マージャンも大したもので、イカサマの手口も一級品ですよ。ま、先生たちだからお話ししたんで、これはひとつ聞かなかったことにしといて下さい」 というと、渡哲也は私たちに一わたりビールを注ぎ、フロントにもどりました。  それから少したったころ、三国連太郎風が、 「イヤーッ、お待たせバしました。続きをやりましゅう?」といいながら陽気に部屋にもどってきましたが、私たちがこれを丁重にお断わりしたのは申すまでもありません。  そして、後藤先生は座ぶとんをしきりにすすめ、竹田さんはあわてて正座に座りなおし、私は「まあまあ、おひとつ」とビールをつぎ、三国連太郎風は、事態の急変をいぶかりながら愛用の両切のピースをふかし、ビールを一口しずかにすすったのです。    3 [#ここから3字下げ]  前項を読んだ八丈島の八丈島簡易裁判所の書記官よりお手紙があり、「勤務時間中に裁判官が釣りをしているようなことは当裁判所では絶対にございません。誤解の起こらないよう訂正して下さい」との申し出がありました。裁判所の釣りの話は八丈島地方に古くから伝わる伝説にすぎませんので、読者の皆様には誤解のなきよう。 [#ここで字下げ終わり]  翌八日は、八丈島がスッポリ暴風雨圏に入ってしまいました。後藤先生と竹田さんは、 「今日休むと欠勤あつかいになってしまうんで、東京勤務のかわりに島の診療所を手伝うことにします」と朝九時ごろホテルを出たので、私は一人で部屋に残されることになりました。所在ない私は、東京と連絡をとったり、簡単な原稿を書いたりして一日をすごしました。窓の外は四〇メートルを越えて風が吹き荒れ、間断なくバケツの水をブチまけたような豪雨が窓ガラスに打ちつけます。船・飛行機とももちろん完全欠航で、八丈島に足留めとなっている客は三〇〇人を越えたということです。府中のわが家に電話すると、妻は、 「まあ、せっかくだからゆっくりしてくればア。下着だけでも送りましょうか」などとうっとうしそうにいうのです。船も飛行機もこれないのに、何で私のパンツ一人が海を渡ることができるというのでしょう。夜になると嵐はいよいよピークをむかえ、ギョエー、ギョエーと怪獣の雄叫びのような風のうなりが一晩中続き、ホテル内は停電となり、海底ケーブルの故障で東京への電話さえ不通となってしまいました。  私は、フロントから支給されたローソクの心細い灯りをたよりに、嵐の一夜をすごしたのです。しかし、その間、副支配人の渡哲也の手あついはからいで、サシミやビールだけではなく、将棋の相手までが差入れられたのはまことにありがたいことでありました。  九日の朝には台風は房総沖に去りましたが、その余波で午前中はまだ相当強い風が残り、ホテルの窓から見える海岸では、三メートルを越える高波が岩場を洗っていました。沿岸の都道には、波と風で吹きあげられた赤ん坊の頭ほどもある岩がゴロゴロちらばっています。  この日は、定刻を一時間以上もすぎた夜七時近くになり、最終便が初めて東京へ飛びましたが、三〇〇人を越える足留め客のうちごく運のよい七〇名余りの人が乗れたにすぎません。渡哲也の島内におけるあらゆる人脈を駆使しての努力の結果、私は翌一〇日の一便で帰京できることとなりました。  夕食のあと、部屋で原稿を書いていると、渡哲也から、最後の夜だから一杯飲みに出ましょうとお声がかかり、私は一も二もなく御好意に甘えることとしました。 「最近ちょっとしたカラオケのクラブができたんです。先生はカラオケがお上手だから存分にやって下さい。私は唄の方は不調法なので、島のノド自慢連中を集めましょう」というので、私は、8ヘミと三国連太郎風も呼んでくれるようにたのみました。「いいでしょう。浄文さんには当選のお祝もしてさしあげなければいけませんからね。せっかくですから、このあいだお泊りになった診療所の先生がたもお呼びしたら」  こういうことで、八時ごろまでにQホテルのロビーには、私、渡哲也、8ヘミ、三国連太郎風、後藤先生、竹田さんの既に皆さん御存知のメンバーのほかに、島のカラオケ狂を代表して、建設会社の菊秀興発株式会社社長菊池秀邦さん、クサヤの製造元の若旦那奥山博文さんというソウソウたる方々が結集し、ここに、バラエティにあふれた、総計八名によるああ堂々のカラオケ遊撃隊というものが編成されたのであります。  私たちの突撃目標となったクラブは、三根部落のちょっとはずれにある「コーセー」という店で、三〇坪ほどのなかなかシャレた店でした。店の一番奥が高くなっていて、ここがカラオケステージになっています。入口の脇には大きなスクリーンがあり、その上にはなんとコンピューター採点によるデジタル表示の点数板が取付けられているのです。島のカラオケ狂たちは、前奏に送られて花のステージにのぼり、スクリーンに映るおのが勇姿をうっとりとながめながら得意の演歌を熱唱し、さらにプレイバックをみてその余韻に酔痴れ、やがて点数板に表示される採点に期待を脹らませる、という多段階的快感反すう式ローテーションを採用しているわけなのです。  台風あけとあって、他に客はなく、店は私たちの貸切り同然という絶好のコンディション。まずはトップバッターとしてクサヤの若旦那がヤンヤの拍手に送られおもむろにステージへとむかったのです。 〈すきま風 クサヤの若旦那 七二点〉  いきなりかなりの高得点です。これをみて「なかなかやるだら」と余裕の笑みをうかべつつ登場したのが、菊秀興発社長です。 〈風雪流れ旅 菊秀興発社長 七八点〉  ドッと拍手。アンコールに応えて、 〈奥飛騨慕情 菊秀興発社長 八二点〉  この店の今週の最高得点です。そのあとは、 〈無法松の一生 三国連太郎風 六一点〉 〈赤いグラス 後藤先生 六九点〉 〈愛のふれあい 竹田さん 六七点〉 〈別れ酒 クサヤの若旦那 七四点〉 とつづき、「いよいよ、真打ち登場!」の掛け声にのって、東京のカラオケ狂を代表し、私めが足どり軽く登場。万全の自信を込めて今宵八丈島の皆様にお送りするその歌は……。 〈酒と泪と男と女 木村弁護士 五四点[#「五四点」に傍点]〉  ナンダ、ナンダこれは。それではもう一曲、 〈メモリーグラス 木村弁護士 四九点[#「四九点」に傍点]〉  茫然自失。意気消沈。阿鼻叫喚。盛者必衰。支離滅裂。新宿歌舞伎町でカラオケ道場破りと異名をとるこの私が、これは、また、なんとしたことでありましょう。ボックスで頭をかきむしってうなだれる私を尻目に、8ヘミは「これぐらいならオレでもいけそうだなア」と、ぼんやり立ちあがり、 〈東京ナイトクラブ 8ヘミ 六〇点〉  なんと、あの音痴の8ヘミまでが私の上をゆくではありませんか。「先生、こんな点では東京に帰れませんよ」という渡哲也のあたたかい励ましにのって、再度挑戦するも、 〈ランナウェイ 木村弁護士 五二点〉 〈ダイアナ 木村弁護士 三六点〉 〈勝手にしやがれ 木村弁護士 二九点〉 と、得点は水の流れるごとく、低きへ向うばかり。これに追討ちをかけるように、 〈旅姿三人男 菊秀興発社長 八四点〉 とトドメの一発がでて、遂に八丈島におけるカラオケデスマッチは、菊秀興発株式会社の優勝、東京弁護士会の最下位と決定し、興奮のうちにその幕が降りたのであります。 「木村先生のが一番ウマカごたるバッテンねエ」「先生は間奏までカラオケと一緒にお歌いになるので、あれでコンピューターが怒って減点してるのではありませんかねエー」  帰りのタクシーの中で三国連太郎風と渡哲也がこもごも慰めてくれ、三人でもう一軒小さなカラオケスナックによりました。  三国連太郎風はすっかりオチ込んでいる私のために早速マイクを注文し、「さあ先生、心おきなく歌って下さい。今度は私が点数をつけますケン。所詮機械では芸術は採点しきらんですバイ」とケシ掛けます。  少々ヤケ気味の私は、三国連太郎風の「ソレッ、八三てぇーん」「ヨシッ、九六てぇーん」という掛け声にのせられて、セクシャルバイオレットナンバーワン、ダンシングオールナイト、カサブランカダンディー、などをオンステージで歌いまくり、そして最後にやや自虐気味に、山口百恵のロックンロールウィドウを歌って八丈島の夜を締めくくったのです。 [#改ページ]   毎度毎度の自己弁護  カラオケが日本文化の中に定着するようになってから久しい。十年前までは、ものめずらしかったカラオケだが、今では、カラオケ装置のない店を探す方が難しいくらいの普及ぶりである。一〇年の間に、これほど日本文化の中にドッシリと根をおろしてしまうとは、誰が想像しただろう。カラオケ装置は、スナックばかりでなく、旅館やホテルの宴会場の必需品となり、マイホームにも進出著しく、最近ではJRの長距離列車の個室やパーティルームにまで備えつけられるようになっている。もちろん、躍進するカラオケ愛好者が増えれば増えるほど、アンチカラオケ派も確実に増加しているように思える。第一騒々しいのが良くない、と嫌《けん》カラオケ人《びと》はいう。なんで、あんなに狭いスペースの中で、マイクを使ってガンガン歌わなければならないのか、肉声で十分届くではないか、というわけだ。そのうえ、カラオケ好きの人は、自分で歌うだけでは物足りず、他人を観客として誘うのが例だ。余り上手《うま》いとも思えない歌をエンエンと聴かされ、これにヨイショをしなければならない立場に立たされた者は、拷問をうけているに等しい、それだけならまだ耐えもする。カラオケ人間の一番イヤミなところは、自分の下手《へた》な歌を多少ともひき立たせようと、カラオケ嫌いの観客要員まで無理矢理ステージに立たせようとすることだ。固辞すると、まるで歌わないことが不道徳であるかのような顔をして責めたてる。あれは一体何なのか! とまあ、アンチカラオケ派はいいつのるのである。  僕はといえば、名だたるカラオケ大好き人間である。管理がすみずみまで行き届いた現代社会の中で、巨大化した機構の歯車として生きることを余儀なくされている現代人にとって、目立つことは御法度。しかし、自己顕示というのは、ある程度人間の本性なのである。カラオケこそは、体力も才能も問わず、自己顕示し、容易に周囲の賞賛(といっても、もちろんお義理ではあるが)をかちうる極めて有力なチャンスである。現代サラリーマンの数少ない人間回復の場なのである。初対面の人とも、日ごろ何となく隔たりを感じていた同僚や取引先の営業マンとも、十年来の親友のようにたわむれ合えるようになってしまう理由がここにある。思えば弁護士という職業も、一般の人には余程疎遠なものであるらしく、心を開いて何でも相談してもらえる関係を築くには、相当の努力と時間を要する。ここに、カラオケの効用がある。依頼者との心の壁を取りのぞくには、依頼者とのカラオケ対抗戦、これが一番手っ取り早い(この論理は少し強引かな)。  かくのごとく、カラオケ大好き弁護士は、毎夜毎夜のカラオケ三昧を自己弁護してやまないわけであるが、しかし、良きカラオケ人《びと》はカラオケが嫌いだ、という人々の立場にも十分の配慮をおしまないのである。今日のように、カラオケ愛好派の増加が、同時にカラオケ憎悪派の増加をも促進している状況というものは、何といっても悲しむべき事態である。  そこで、僕のカラオケスナック改造案をここにお示しする。カラオケ騒音に悩むお客様のために、まず、カラオケ歌手には音のもれない気密室のステージに入っていただくのである。もちろん、歌手の顕示欲求を満たすため、この機密ステージは全面ガラス張りとする。スポットライトなどもどんどんあてていただきたい。そして、店内には、客の数だけ、ヘッドホンを備えつけ、歌手の声を聴きたい人だけがこれをつける。観客がテーブルにある�拍手ボタン�を押すと、押された数や押した強さなどに応じて、機密ステージ内では盛大に拍手音が鳴り響く、という仕掛けである。こうすれば、静かに店内で飲みながら語り合いたい客と、カラオケで大いに盛り上がりたい客との利害調整はほぼ完璧にはかれるわけだ。この�分音�カラオケ・システム、どこか採用されるお店はないであろうか。 [#改ページ]   あたしゃ早寝がしてみたい  どうも、カラオケは健康に良くないのである。大体において、カラオケを歌い始めると気分が高揚して酒量が増す。酒量が増すと、とどまることなくつぎつぎと歌いたくなる。深酒と深カラオケが続けば結局肝臓とノドを傷める。生まれてこのかた、オタフク風邪以外に殆んど病気らしい病気をしたことがなかった僕が、最近は健康診断のたびに「軽い肝臓障害がありますね」といわれるようになり、その上、一昨年は扁桃腺炎をこじらせて二週間も入院するハメとなった。これ、すべて問題の根はカラオケにある。  新しい曲を憶えると歌いたくなるので、最近は健康のために音楽番組は避けている。特に同年代の男性歌手の新曲は禁物である。ところがこうしてカラオケ界から足を洗おうと努力しているのに、僕の大好きな井上陽水のレコードを「誕生日オメデトウ」等と贈ってくれるヒトが出てくるのでコトは面倒になる。しかも譜面付きというのだから悪魔の細工は手が込んでいる。この「9・5CARATS」というLP一枚のために、僕の肝臓のアルコール分解能力を示すγ—GTPは一カ月間に三〇ポイントも劣化してしまった。  カラオケ地獄を脱するには、何か他に楽しみを持たねばと、シェイプ・アップも兼ねて水泳を始めた。深呼吸をしながらゆっくりプールを往復すると、一泳ぎごとに、肝臓もノドも癒えていくような壮快さだ。しかしこれで問題が解決すると思ったのは甘すぎた。泳いでスッキリする→ノドが渇く→ビールを飲む→一曲歌いたくなる→つぎつぎ歌いたくなる→とめどなく歌ってしまう、という新たなサイクルがここに生まれてしまったからだ。そこで都都逸。  ※[#歌記号、unicode303d]三千世界の カラオケ屋を殺し   あたしゃ、早寝がしてみたい [#改ページ]   わがダイエット奮戦記  僕の半自伝的エッセイ本の出版記念パーティは、僕の事務所の開設一・五周年記念を兼ねて、三月九日に挙行され、盛会裡にその幕をとじました。会場には、僕のA体背広復帰を祝って三〇〇名近い方々がお集まり下さいました。本当に有難いことでありました。  葉書によるパーティ参加の御応募もたくさんいただきました。会場の都合もあり、厳正なる抽せんの結果、一〇名様を御招待申しあげたところ、都内近県はおろか、はるばる新潟、静岡などからホントに御出席頂いてしまい、恐縮至極というほかない気持ちであります。  残念ながら抽せんにもれた読者の皆様、さらには御出席の希望をお持ち下さりながら、よんどころない都合で御応募頂けなかった若干名の読者の皆様、そしてさらには「そんなアホなもんに出席してられるかいナァ」という、これまた至極当然といえば当然すぎる理由で御応募頂けなかった圧倒的多数の読者の皆様には、男一匹木村晋介、七四・五キログラムのギリギリA体背広姿にて、御参集の方々に御挨拶がかなったことを御報告し、心から日頃からの御厚宜に対し、御礼申し上げるものであります。  こう冒頭に挨拶してしまうと、僕のA型復帰への道はかなり順調なもののように思われてくるのだが、実は、そう単純に喜んでばかりはいられない問題が、ここに新たに生じたのである。  第一の問題は、一月末に七四・五キロを記録して以来、減量が止まってしまったということである。  一時は七八キロに至って階段を降りるたびに胸がタッポン、タッポンとゆれるようになり、このままでは八〇キロを超すのも時間の問題と思われた昨秋のあの地獄の非常事態からみれば、これは夢のような前進ではある。とても新宿ドゥ・スポーツや高田馬場ビッグ・ボックスの方に足を向けて寝ることは許されないというべきであろう。だが、僕の身長は一七五センチであり、僕は三〇代になるまでは長きにわたって、理想体重の六四キロを維持してきたのである。それが、毎年ジワジワと一キロずつ増え、そして昨年急に三キロ余りを加えて、ついに危急存亡の事態を迎えたのであった。今さら六四キロへの復帰は望むべくもないとしても、せめてその五キロ増しのギリギリ六九キロをめざしたい——こう秘かに考えていたので、七四・五キロからいっこうに減らなくなってしまったのでは困るのである。  もうひとつの問題は、件《くだん》のパーティの最中に、某ファッション誌の編集者が僕をつかまえ、無遠慮にも僕のシルク製背広のあちこちをなで回すと、「これで本当にA体ですかァ。ウーム、これは最近開発されたL判A体というやつで、正しいA体とはいえませんねェ。こないだまでは本来ならAB体のはずのものですよこれは」とつぶやいたことである。そう語るこの編集者の目は、はっきりいって例のキツネ目であった。僕は直ちに大阪婦警と兵庫犬警に密告してやることにした。  木村晋介スリム化促進運動が停滞と新しい苦難の時期をむかえたことをききつけてまっ先に飛んできたのは、この場合もやっぱりヒトダマのミホコであった。 「L判でもともかくA体まで来たんだから、たいがいのとこで妥協しといた方がイイワ。無理な運動してケガでもしたら大変ヨ。四〇すぎたら、心のキズはすぐに治るけど、身体《からだ》のキズは治り難いんだっていうから」  ミホコはそう一言いうと、二〇〇gのフィレ・ステーキ定食をペロとたいらげて、竹芝方面に去って行った。  このぶんだと多分来るだろうと思っているところに、つづいて飛んできたのは、結局ミーハーの南里であった。 「週に一、二度泳いでいるだけで満足しているその姿勢が問題だネ。もうひといきヤセるのには、血のにじむような努力が必要だよ。パンツを競泳用ビキニ風のヤツに変えて見たら、余りの醜さに、もう少し真剣になると思うがネ」  南里はそうたたみかけると、秩父みやげの和銅最中六ケをポケットに入れ、新宿三丁目方面に消えていった。南里の去ったあと僕の机の上には、例の鈴木その子先生の奇跡の名著『やせたい人は食べなさい』(祥伝社)ほか二冊がポツンと残されていた。しかし、「一日五食たべて間食しろ」とか「寝る前に大福を喰え」とかいう過激な御意見には、心が惹かれても身体がついていけそうにない。僕は少し空しい気持で新宿のドゥに一人出掛けるほかはなかったのである。  走って泳いだあとというものは、腹もへるがノドも乾く。ドゥの出口の前には「庄屋」という民芸風の酒場がある。僕はいつものようにこの酒場の椅子に腰掛け、七四・五キロの壁を破る方途を一人静かに考えることとした。血のにじむような努力といっても、余り過激なものは長続きしないだろうし、ミホコのいうようにケガも心配である。あくまでも日常性の中に無理なく位置づけられるものでなければならない。例えば、法律相談しながらヤセられる方法というのはどうか。それも、バーベルを持ち上げながら相談にのる、というような過激なものはいけない。せめて、相談中は椅子に座るのはやめ、中腰で相談にのる、というのはどうだろうか。ウム、これならば、身を乗り出して真剣に相談しているようで、相手も納得するかもしれない。  などと、想をねっているところに、いつものように生ビールの大ジョッキと生野菜のつまみが来た。僕は、結局問題なのはこの生ビールかもしれぬ、としばらく大ジョッキを睨みながら、力なくつまみのキャベツを一口ほうばったのだった。 [#改ページ]   事件その三[#「事件その三」はゴシック体]  かくもあやしき  探険篇[#「探険篇」はゴシック体] [#改ページ]   弁護士アメリカを行く    1  海外、といえば八丈島くらいしか思いつかなかった僕は、もちろん一度も国外に出たことはなかった。おそらく将来も含めて、外国旅行をするというようなことはあるまい、と思っていた。ヒトとモノに世の中を分けた場合、僕はヒトの方には興味があるがモノの方には余り興味がない。外国まで時間をかけてでかけてみても、何分にも言葉が通じないのではヒトとのつながりが作れそうにない。モノに興味のない僕にとって、忙しい時間をさいて外国の珍しい景色を見て回る、などという気分には到底なれなかったのである。沢野ひとしのように、しばしば「歯ブラシ」とか「万年筆」とか「ハンダごて」などに異常な興味をもって突進できる人もいるので、こういうモノ指向人間はどんどん外国を旅してよいわけである。しかし、僕は知らないところを旅するよりも、仲間とグズグズ新宿あたりで酒を飲んでいたいというタチなので一生外国などに出掛けることはあるまい、このまま日本国の中で潔く朽ち果てて行こうではないか、とこう思っていたのである。  ところが、どうしたモノのはずみか、その僕が一〇日間の米国視察旅行なるものに出発することになった。  日経論説委員の栗原宣彦氏を団長とし、大学教授、クレジット産業関係者、消費者団体役員などなど総勢二八名で構成された僕を含む渡米グループは、通産省クレジット債権回収問題研究会米国視察団と命名され、要するに、アメリカでクレジット・カードなどの使いすぎから、返済困難になってしまった「多重債務者」が、どんな方法で救済されているのか、はたまた、クレジット会社はそうした回収困難な債務者からどうやって債権を回収しているのか、というようなことを調査してこよう、というわけである。日本でもここのところ一〇年くらい前から、サラ金やクレジットの債務で首のまわらなくなる「多重債務者」が増加して社会問題となっていることは御存知の人も多いだろう。そうした多重債務者をかかえて大変な思いをしている点では、日本よりもはるかにクレジットの利用度の大きいアメリカの方が先進国(?)なわけで、その辺りの苦労話をいろいろ聞き歩いて、日本での参考にしよう、それには、日本における多重債務者救済の先駆者の一人である木村晋介弁護士も連れてった方が、何かと面白いのではないか、という通産省のお声がかりで僕も御一緒することとなったのである。  僕の米国視察旅行は、一〇月二二日、箱崎の東京シティエアーターミナルから始まった。出発前の打ち合せ視察団の結団式は一四時からの予定だったが、初めての海外旅行なので何かの手違いがあってはいけない。僕は一二時半には箱崎ターミナルに早々と到着、トランクをコインロッカーに預けて昼食をとりながら時間の来るのを待つことにした。  二階にセルフサービスのレストランがあった。日本を離れるにあたって、最後の食事をどのようなメニューにするべきか、とショーケースをみると、洋食では僕が常々あたりはずれの少ない食べもの第一位に指名しているビーフシチュー(ちなみにカレーライスは第二位)の見本が、たっぷり角切りお肉の姿で僕を誘っていた。しかも六五〇円! 僕は一も二もなくカウンターで「ビーフシチュー、ビーフシチュー」と絶叫していた。しかし待つこと数分、セルフサービス用のトレイに乗せられたビーフシチューは見るも無残、語るも悲惨、コーヒー色のスープ(シチューとはほど遠い)の底を何度かき混ぜても、吉野家の牛皿以上のものは何も発見されなかったのだ。箱崎のエアーターミナルといえば、成田空港まで行かずにほとんどの航空会社の海外向け便のチェック・インが出来る、ということで、いわば海外渡航者の第一出発玄関としての役割をはたす、大事な大事なところである。そんな大事なターミナル・ポイントのレストランのビーフシチューがこのようなものであってよいのか。僕は急にこれからのアメリカ旅行の行く末に翳りがさしたように感じて、実に暗澹たる思いでビーフシチューをすすったのである。  このビーフシチューでなぜかすっかり不安になってしまった僕は、出発にあたって何か決定的な手落ちをしているような気持にかられ、手荷物用に持ってきたショルダーバッグの中味を急遽点検したのである。視察団員用の資料はある。案内書もある。サイフもある。アメックスカードもある。飛行機の中で読んで行こうと思ったいくつかの論文も入っている。日本交通公社発行の「旅のしおり」も入っていた。服装や身のまわり品はトランクの方に入っているはずだ……。しかし何か大事なものを忘れていないか。背筋に稲妻が走った!  パスポートが無い! ショルダーバッグには無い! あわててロッカーから引っ張りだしたトランクにも無い! 無い! 無いー! 公衆電話に走った。ともかく自宅に電話だ。出発の仕度を多忙にかまけて妻まかせにしていたのが失敗のもとだった。いや、考えてみれば、もともと子供のころから忘れ物の多かった僕のような男が、たまたま高校の前のパン屋の娘だったという縁だけで、こんなうかつな妻をもらったのが間違いだった。ダイヤルを回す間にも悔悟と無念の思いがのどまでこみあげてきた。 「ななななな無いぞ。パスポートが無い。いくら捜しても、ななな無いゾオーッ」  数秒の間を置いて、受話器に、一七年間つれそった仲とも思えぬ何とも事務的で冷たい妻の声が流れて電話は瞬時に切れた。 「パスポートはそこで交通公社の人が渡してくれるはずです。案内書をよく読んで下さい。ガチャ」  かくして僕は、無事、サンフランシスコに向かう機上の人となった。    2  一〇月二二日午後六時発、僕たち米国視察団を乗せてサンフランシスコへ向かう飛行機は、問題のJALであり、かつ、また問題のあのボーイング七四七であったのだ。  搭乗手続の前に空港の発着掲示板の下で、簡単なミーティングが開かれ、交通公社の添乗員氏によるガイダンスがあった。僕より少し若い年恰好の添乗員、福岡氏は、グレーのダブルのブレザーを実にスッキリと着こなし、自信に満ちた口調でよどみなく搭乗までの段取りを説明する。その説明ぶりは、彼が一流の添乗員であるばかりか、第一級の国際人であることを如実に示す見事なものであった。彼は、肩幅より少し広めのスタンスをとり、まず両手を大きく広げて、右から左へゆっくりと視察団全体を見わたした。そしてその両手を顔の前あたりで軽く一度叩くやいなや、再び両手を少し開きアゴの高さにそして概ね肩幅の位置に開きピタッと静止させる。開いた両手は、床に対し約四五度の角度を保ち、正面に掌が向く形で固定された。ダイヤモンドのブリリアントカットさながらの完成された理想的なフォームである。 「それではァ、これから皆様の搭乗手続について御説明致します。まずゥ、お手もとのォ……」、彼は肩と首を軽く動かしながらゆっくりと話しはじめ、要所要所で話を切り、そのときブリリアントカットフォームをくずし、もとのように両手を大きく広げた基本姿勢に戻り、肩を少しすぼめて、その慈愛にあふれた目で視察団の顔をひとわたり見回すのである。そうして、自分の説明が視察団員の胸の中に深く染み込んでいったことを確認すると、再び手を叩き、ブリリアントカットを保ちつつ話しはじめるのである。  僕は、ウームとうなった。福岡氏の絶妙の手さばき、ケレン味のない肩や首のつかい方、微妙なスタンスのとり方、それらのすべてが、成田に居ながらすでにしてすっかり僕たちをアメリカン・フィーリングにしてしまっているのである。僕はアメリカ滞在中はぜひとも、このブリリアントカットスタイルで迫ってみようと深く心に誓ったのであった。  手続の説明が終わり、搭乗券が配られることとなった。福岡氏の説明では、禁煙席を希望する人は、機内二階席の方がとれており、それ以外の人は、一階席で、かなり後の奥の方の席になる、ということであった。僕自身、多少煙草は吸うのだが、他人の煙を吸わされるのは嫌なので、大概普段は新幹線も飛行機も禁煙席をとる。しかし、この際そんな贅沢はいっておれない。なにせ航空会社はあのオソマツJALであり、機体は、あの恐怖の七四七なのである。多少の煙はガマンすることとして、とりあえず一階後部座席[#「一階後部座席」に傍点]の方に陣取ることとしたが、この選択はとりかえしのつかないまちがいであった。  機内は禁煙席の方がむしろ広く、喫煙OK席は押し込められた形で、なるほど「機体後部」の方にある。もはや、禁煙が原則であり「喫煙席」は特別に煙がお好きな向きのためにセットしてある、という感が強いのだ。それ自体は僕も大いに支持するところの嫌煙運動の成果であり、結構なことなのだが、こういう形になってしまうと、この「喫煙席」ゾーンには、ニコチン中毒患者とでもよぶべき人ばかりがかたまってしまい、このゾーンに入ると、前後左右からの激しいケムリ攻撃にさらされることとなる。極く一部に禁煙席があって、それ以外の席には、喫煙者と非喫煙者が共存しているといった、少し前までの状況であれば、煙の濃度はある程度拡散される。  しかし、こうまで愛煙家だけを一部の面積に高密度に集めると「喫煙席」の一帯はさながらケムリ地獄と化す。これは喫煙している人自身についてもかなりキビシイ状態なわけで、僕から五席ほど左側に座っている外国人老紳士などは、一晩中高濃度のケムリにせめたてられ、結核患者のように苦しそうに「ヒーコ、ヒーコ」とせき込みながら、それでもその苦しい息のしたで健気にも自ら煙草を吸っている、という一種悲惨な状況というものが現出してくるのである。  コトここに至って、僕は再びウームとうなった。このヒドイ状況というものは、JAL国際線当局の、嫌煙運動への対処の仕方が中途半端なことに起因するのではあるまいか。ここまで「喫煙席」を縮小するのであれば、いっそのこと全席禁煙としてしまい、便所なみに「煙所《えんじよ》」を設置し、客席には一切ケムリが流れないようにするべきではなかろうか。いかに愛煙家といえども、九時間余りもヒト様が吸ったり吐いたりした煙まみれになって旅行したいとは思うまい。などの思いが眠れぬ頭の中を駆けめぐったのであった。  かくして、僕は一瞬として途絶えることのないケムリでいぶされ続け、すっかりノドが痛くなってしまい、時々禁煙席の方を散歩したりしながら、マンジリともせぬ夜をすごしたのである。  飛行機が日の出に向って飛んだために、夜は不自然に早くあけ、同じ日の午前一一時、視察団は無事サンフランシスコ空港に降りたった。  空港では、預けた荷物が出てくるまでにヤタラ待たされ、そのうえ、入国審査にもヤタラ時間がかかった、ということ以外に特別の印象は何もない。初めて、日本以外の国土を踏んでいる、という実感も、余り確たるものとしては迫ってこなかった。確かに、着陸直前に飛行機の窓から見たサンフランシスコ湾は美しかった。空港には外国人と英会話があふれていた。しかし、だからどうなのよ、という感じで、それらはケムリと不眠でボヤけた視野に、漠たる風景として流れ込んでくるだけだった。ま、こんなもんか、という安易な気構えでいる僕に、パニックはホテルで突然訪れた。    3  市内観光を終え、夕刻ホリディ・インに着いた。僕の部屋はツインで、消費者むけローンで有名なA社の塚田氏と同室することになった。  塚田氏とは、視察期間中ずっと同室する、いわばパートナーの関係ということなので、おたがいに丁重に挨拶を交わした。「ムッシュ木村の本は全部読んでますよ。椎名誠の本もムッシュがでてくるのはほとんど読みました。お会いするのが楽しみでね。ぜひ、アメリカでもカラオケをやりましょう」とA社の本社企画部長らしく、その非凡な情報収集力の一端を披瀝しながら話しかけてきた。部長とはいっても僕とはほぼ同年輩で、緒方拳を少し肉づきを良くして、少しひとなつっこくして、さらに少し足を短くしたような、もっともこれだけ修正すると、緒方拳とはほとんど違ってしまうという意見もあろうが、ともかく、シャープさとどこか陽気なイメージとが混在した、なかなかの人物、タダモノではない、という雰囲気をただよわせていた。「僕は、海外旅行は初めてなんで、ムッシュ塚田を頼りにさせてもらいますよ」というと、「僕は喋る方はブロークンでもかなりやりますから安心して下さい。ただ、向こうが何いってるのかはマルで判らないんでね。そこが欠陥ですが」といって、ムッシュ塚田はニヤリと笑うのだった。  部屋に着くと間もなく白人のポーターが荷物を運んできた。当然のことながら、御当地においては、こうしたお仕事も、みんなアメリカ人がやっていらっしゃるのである。バスの運転手もアメリカ人だった。サンフランシスコ空港の近くでは、道路工事までアメリカ人がやっているのを見て、僕は思わず「何とモッタイない」と心の中で手を合わせてしまったのだ。昭和二〇年生まれの少年の胸にきざみこまれた進駐軍コンプレックスは、そう簡単に抜けるものではないのである。  そういうわけで、白人ポーターが「ナントカ、カントカ、サー」などといいながら、僕のスーツケースをうやうやしく部屋に運び込んでくれるのを見ただけで、僕はちょっとオロオロしてしまったのだが、さすがにアメリカなれしたムッシュ塚田は少しも騒がず、荷物の数を点検すると、指を一本立て、「ワンモア、バゲッジ」と静かにポーターに告げるのである。ポーターは少しあわてた様子で、「オー、ナントカ、サー。ソーリー、ナンヤラ、カンヤラ」などといいながら小走りに部屋を出て行った。ウーム、塚田英語はしっかり通じているのだ。  僕がこの鮮かなやりとりに見とれていると、ムッシュ塚田は、「ちょっと、避難経路を確認してきます。僕のスーツケースが届いたら受けとっておいて下さい。チップは、公社が払ってあるから、渡す必要はありませんよ」といいおいて、廊下に消えていった。直後にドアがノックされ、今度は黒人のポーターがスーツケースを届けてきた。かなりドギマギしつつ、「サンキュー」というと、そのポーターは、「ナンタラ、カンタラ、サー」といって何の抵抗もせず、出て行った。「何だアメリカ人も大したことはないな」などと、別に何の理由もなく僕は少し気を大きくした。これが大変な間違いだった。  しばらくして、またノックがあった。ムッシュ塚田が帰ったのかと思ってドアを開けると、何とそこには、先ほどの白人のポーターが、赤らんだ顔で大きく胸の前に手を広げて立っていた。かなり興奮した様子で、「ドウタラ、コウタラ、バケッジ! アータラ、ソータラ!」と僕に話し掛けてきたのである。事の次第はすぐにのみこめた。彼がエレベーターホールあたりに積みのこして来てしまったムッシュ塚田の荷物を、黒人ポーターが気をきかせて届けてくれたのだが、それを彼は知らない。そこで最後の荷物は届いたのか、と僕に確かめているのだ。届いていなければ盗難にでもあったことになり、彼はその責任を問われなければならない。あわてるのは当然である。  しかし、彼を安心させるためにどう答えてやればよいのか、僕は彼と同じように胸の前で両手を広げ、「アー、アー」というのだが、全く次の言葉が続いてこない。他の人が持って来た、といえばよいわけだが、他の人は「アナザーワン」ぐらいでよさそうだが「持ってきた」は「ブロウト」でよいのか。やはり、ここは、完了形で「ハブ」を入れるべきか。待てよ、へたなことを言って、「誰かが持ってった」という意味にとられてしまうとかえって事態は混乱する。むしろ、「君の仕事は終った」と言った方がよいか。すると、「フィニッシュ」だが今度は「すべては終った。もうダメだ」ととられないか、などと考えて困っていると、彼はますます心配になって、逆上したように首をふりながら喋り出した。早く、ムッシュ塚田が帰ってこないか、廊下の方を見るが、姿は見えない。もはやパニック状態だ。心は千々に乱れ、ヒタイからは汗がたれて来る。しかしその時である。その時、天の啓示のように、僕の頭の中にある一つの英文がうかんだ。 「アイム、ベリーハッピー! ベリーハッピー!」僕は半分泣きながら叫んだ。  同じように手を広げあった二人の間に緊張に満ちた沈黙の時が流れた。ややあって、白人ポーターの顔に喜びの色があふれていった。彼は、かん高い、しかし静かな声で、「ハッピー…、ユア、ハピイナウ。オー、ソウタラ、ソウタラ、サー」というと、ウィンクを送りスキップを踏まんばかりに、手を振りながら廊下をひきあげていった。    4  サンフランシスコでの調査団の主な訪問先は、同市のCCCS(コンシュマー・クレジット・カウンセリング・サービス)だった。CCCSはクレジットを使いすぎて支払い困難になった人たちの相談機関である。  サンフランシスコのCCCSのオフィスは市内の目抜き通りに面した銀行の一階のフロアにデーンとかまえた三〇坪ぐらいの広さのもので、僕はまずその立派さに驚いてしまった。いくつかの小さな相談室のほかに、一〇坪ほどのミーティングルームがあり、調査団の一行はここに招き入れられた。  こないだまで州立大学で家政学を教えていたという女性所長のレクチュアが日本人通訳を交えて約四〇分ほどあり、その後約一時間ほどの質疑がかわされた。  CCCSは、クレジット会社から集めた基金で、全米二〇〇カ所ほどに設立されている。ここに相談にくる債務者は、ここのCCCSに所属する数人のカウンセラーからカウンセリングをうけて、自分の多額になりすぎた債務の返済計画(普通は二〇カ月から二五カ月払い)をつくってもらい、これをCCCSに払い込む。CCCSは一〇%の手数料を差し引いて、これを各クレジット会社に送金する。この返済計画は、もちろん当初その債務者とクレジット会社との間で決められた方法よりはゆるやかなものだが、それでもCCCSの作った計画に沿った返済が行われている間はクレジット会社は債務者本人に取立てを行わない。そこで日本のように、各債権者が入り乱れ、われ先に強引な取立てをするためにおこる、いわゆるサラ金地獄のようなトラブルを避けることができる、というわけだ。  ほぼ、日本でわれわれ弁護士がやっているサラ金の債務処理に似たようなもののようだが、債務額の平均は七〜八千ドルとかなり少額(日本に比べればだが)で、債権者であるクレジット会社の紹介で来る者が多い、というのも日本とかなり違うように思った。日本の場合には三〇〇万円(一ドル一六五円としても一万八千ドル強)前後の借金になって、本当にニッチもサッチもいかないようにならないと相談には来ない。しかも、債権者は、弁護士を入れない以上なかなか長期の返済計画への変更に応じてくれないのである。日本のようなクレジット後進国に、このようなCCCSのシステムを応用するには、債権者も債務者も、もう少しおりこうさんにならないと難かしそうだな、と僕はレクチュアを聞きながら思ってしまった。  サンフランシスコで予定されたいくつかの調査を終えた夜、「ちょっとプライベートに打ち上げをしましょう」というムッシュ塚田とクレジット業界誌の編集者の安田氏の案内で栗原団長もお誘いし、メイシー百貨店の近くにあるピアノサロンへ出掛けた。かなりの広さのその店は、入口のわきにちょっとしたステージがあり、店のママとおぼしき中年の東洋人女性がピアノの弾きがたりでスタンダードを聴かせていた。  ステージの横に陣取ると、中国系の小柄な女性二人と、大柄な白人という奇妙な組み合わせのホステス三人組が、僕たち四人の間に割り込んできた。外人コンプレックスの僕はそれだけで少し緊張してしまった。もちろん日本語は通用しないので、おしゃべりは他の三人にまかせ、まずはビールをたてつづけに二、三杯飲みほした。そのうえで、少し気を落ちつけてうす暗い店内を見渡すと、何のことはない半分以上は日本人客。  これはどっかで見た光景だなあ、と僕はあちこちのあいまいな記憶をひっくり回した。そうそう、これは相互広告社の加藤社長(御存知のない方のためにいっておくと、この方は僕の事務所のビルの家主である)にこの前連れてってもらった、銀座の外人ホステスクラブそのものだなあ、と思いあたった。要するに、日本にいるのと大差はないのである。そう思うと、グッと気分が楽になってきた。 「アーユー・アン・アメリカン?」  傍に座った白人ホステスに英語で質問する余裕まで出てきてしまった。白人ホステスは(アラ何よ、黙ってるから英語はダメなのかと思ったら、こちら、しゃべれんじゃないのオ)というようなホッとした表情で、ベラベラとしゃべりかけてきた。よくはわかんないが、その言わんとするところは概ね、自分はイギリス人で、三年前から家族と一緒に当地にきている、というようなことのようであるらしかった。僕は、よくわかんないが、例の福岡氏のブリリアントカットスタイルをまねて胸の前で手をひろげ「フンフン」とあいづちを入れて、しばらく彼女の話に耳をかたむけた。アメリカの歌は好きだとか、良い歌が多いとかいう話のようだった。時々、彼女が僕に質問しているようなのだが、僕は適当に、「オー、イエス、オフコース」などとよくわかんないままに返事をしていた。  その時、ムッシュ塚田が「ヒー・イズ・ア・ベリー・フェイマス・ジャパニーズ・カラオケシンガー」と横やりを入れた。彼女は、「オー・カラオケ・ナンヤラカンヤラ」と大ゲサに驚いてみせ、やおらピアニストの方に走って行った。ピアニストは僕の方に向きなおり、手まねきしながら、何か大声で僕にむかって叫んだ。どうやら、何か歌えと言っているらしい。僕は酒がまわってきて、すっかり気楽になってきていたので、「オーケー!」とステージに飛び出し、大ゲサな身振りとくさーいフェイクまじりで「イッツ・ア・ビューティフル・サンデー」を熱唱した。  しばらくあきれて見ていた客席の日本人はこれを機に、つぎつぎ自分も歌うとピアニストに申し出て、この店はイッキに日本人カラオケパワーに席捲されてしまった。カラオケ嫌いで有名な栗原団長は頭をかかえ込んでポツンと一言「これだから日本人は好かれねェんだよなァ」とつぶやいたのだった。 [#改ページ]   必殺ヤブ蚊集団  この夏は特別の猛暑だったが、我家ではどういう訳か蚊が少なく、一夏中蚊とり線香をつけなかった。蚊も夏バテだったのだろうか。  蚊といえば僕は毎年、作家やらイラストレーターやらいろいろと訳のわからない仲間が集まり「あやしい探険隊」などと称して訳のわからないテント合宿をするのだが、蚊とり線香を山程持って出掛けるが必ず全身蚊に喰われハレハレになって帰ってくる。  合宿先は大抵、余り名の知れていない離島が多いが、そこに生息する野生の蚊は普段見なれぬ都会の人間どもに対して、闘志をむき出して暗闇の中で眼をらんらんと輝かせじっと時の来るのを待っている。特に何の目的なくテント合宿をする我々は、ひたすら酒を飲み、騒ぎ疲れ、一人、また一人とテントにもぐり込みへたばり寝入るわけである。  折角持って行った蚊とり線香を、つけてから寝ようなどという殊勝な心掛けの者など一人としていない。  数刻を経て、テント内のあちこちから「ウッ」「ウーッ」とうなり声が起きる。うなり声がしばらく続いた後、誰かが「オイ、蚊とり線香ないか」となげやりに隣の男をケトばす。そして懐中電灯がつき、そこら中の荷物をひっかきまわし、ようやくどこかのバッグの底に入り込んでいた蚊とり線香が点火された頃には、既に各自、体中数十カ所を刺され、修羅場と化したテント内にはおろかな合宿人の血で腹をふくらませた百匹近い必殺ヤブ蚊集団が、ゲップをしながら勝利の編隊飛行を繰り広げている。出遅れの蚊とり線香の煙の中そこらにとまった蚊を一匹ずつたたいていると、白々と夜明けの光が血だらけのテントを浮きあがらせ、男達は寝不足の目をしばたたきつつ、力なく体中をかきむしるのである。 [#改ページ]   鹿児島のぼるラーメンの堂々  旅行と仕事を兼ねて晩秋の鹿児島に行った。  鹿児島は三度目だが、過去二回はほとんど仕事オンリーだったので、観光地は全く見ずじまいだった。今回は、事務所の慰安旅行に仕事(裁判と講演)をセットしたから、多少は観光もできた。  観光の方は、他の法律事務所の方々と一緒で、合計三〇人近い大世帯だったから、JTBの添乗員つきの観光バスを使っての、お定まりのものだ。バスガイドの案内で、市内市外の各所を巡るのだが、それにしても、観光旅行というものは、なぜああも律義に分刻みで動き回らなければならないのだろうか。その結果泊るホテルさえ毎晩違うことになってしまう。僕のようなモノグサ男は、どこか一箇所景色のよいところに拠点を定めて、酒でもチビチビやりながら、日がなグダグダと寝ころがってすごし、夜になるや突如として元気ハツラツ、宴会でドッと盛りあがる、というのを理想としているので、これではどうにも落ち着きが悪いのである。そんなワガママをいうのなら、一人で旅行すればよい、といわれそうだが、モノグサ男は、他人様のお導きがなければ、到底旅行になど行かないのである。ましてや、一人旅では、ドッと盛り上がる宴会が開けない、というわけで僕の旅行はいつでも集団旅行でなければならないのだ。  最も僕の理想に近い団体旅行は、従ってスキー旅行ということになる。僕は、スキーは全くやらないのだが、スキー旅行につき合うのは好きだ。まず拠点の移動がない、というのが良い。何日も同じホテルにいられる、ということは、午前一〇時にチェックアウトが必要ないということで、これは昼間もホテルの部屋でグダグダが可能だという重要な意味をもっている。  皆が嬉々としてスキーに出掛けてしまったあと、部屋に居残り、心静かに窓の雪をながめながら、一人ぬくぬくと暖いコタツに寝転びながらやる一杯は最高である。一人で将棋をならべるも良し、昼寝をして、夜の宴会のために体調を整えるもよし。  大分話がそれてしまったが、問題は鹿児島である。いろいろ巡ってみたものの、鹿児島は結局桜島と温泉につきる。それ以外に特に見るべきものはない、というのが僕の鹿児島観光の結論であった。  むしろ見るべきものは、ラーメンである。地元の食通の案内で、かの有名な、のぼるラーメンを食べに行った。ともかく、せまい店であります。一二時をすぎると混むというので昼少し前に入ったのに、二〇人余りしか席のない一階のカウンターは、既に満席。二階席も満席。待合席も満席。立って待っている客が入口をふさいで、身動き困難という盛況である。頭上を見ると、伊丹十三、永六輔、俵萠子、などなど、ソウソウたる食通連の色紙が掛っている。なるほど、さすがに音にきくラーメン屋、ただものではないゾ、と油断なく店内を見わたす。異様である。まず、カウンターの中にいる要員がおばちゃんばっかりである。そのおばちゃんというのが、みんな素人っぽい人ばかりで、まず職人らしくない。何となく、小学校の給食の調理場をのぞいたような雰囲気である。六〇前後とおぼしき、筆頭重役格のおばちゃんがメンをゆでている容器。これがまた異様である。ちょうど、昔のゴハンがまのような型をした、巨大なかまが二つ、カウンターの中に、ドーンとそそり立っている。そう、正にそそり立っている、というイメージなのである。  客の座席の前には、大きなステンレス台があり、その上には、大きめのふきんが敷かれている。なぜ、敷かれているかというと、ひとつにこのステンレス台は、客の食べたラーメンのどんぶりを流し場に運ぶまでの、一時預留所となっていて、客の飲み残したスープがこぼれたりするのだが、これをこの大きめのふきんが吸引する役目を負わされているのである。同時に、このステンレス台は、ラーメン製造用作業台でもある。従って、タップリふちまでつがれたスープの中に、先の大がま担当重役のおばちゃんが、かまから大きなハシでひきずり出したるゆで上りメンを放り込む際には、当然のことながらスープがあふれ出る。このスープも、この大きめふきんは吸引する任務を負っている。かくして、大きめふきんは、この二大任務を遂行しつつ、次第にグッチョングッチョンになっていき、ときには、どんぶりのふちからするりと逃げ出しかけたメンを大がま担当重役が猿臂《えんび》をのばしてウンショとどんぶりの中にもどしてしまうまでの間、シッカと受けとめたりもするのである。必ずしもこれは、衛生的な風景ではないのだが、おばちゃん達の目は、「イヤなら来んでもよかバイ」と、涼やかに笑っているのである。店内には、数カ所に先代の大がま担当おばあちゃんの写真がパネルで掲げてある。これもスゴイといえばスゴイ。そして常連客のラーメンには、黙って一箇、生タマゴがサービスに落とされる。黙って、というのがスゴイ。誰を常連客とみなすかは、具の投入係のおばちゃんの裁量に全面的にゆだねられているというのも、スゴイ。「来る者は来ればよか。イヤなもんは来んでよか」という、この徹底した差別化戦略は、とかく客にこびすぎる現代商品文化に対し、何ものかを問いかけているのではあるまいか。いやはや、鹿児島はなかなかスゴイぞ。やっと空席にありついた僕は、ラーメン待ちの間に配給になった、ダイコンの浅漬けをかじりながら、しばし興奮のうちにおばちゃん達のたのもしげな横顔をながめ回したのであった。 [#改ページ]   事件その四[#「事件その四」はゴシック体]  わたくし大好き  娯楽篇[#「娯楽篇」はゴシック体] [#改ページ]   弁護士おだてりゃパーソナリティ    1  モノのはずみというものが、恐ろしいものと、つねづね思わなかったわけではない。合格はまだ少し先と思っていた司法試験に、思いがけずもウカってしまったときもそう思った。ましてや、東府中駅から酔払って自転車で帰る途中の急な下り斜面でカーブを切りそこねて電柱に衝突し、約五メートル空を飛んで顔面をアスファルトにしたたかに打ちつけ、血をしたたらせながら車輪のゆがんだ自転車をひきずりひきずり帰った夜には、ますますその感を強くした。  しかし、なんぼなんでも、モノのはずみでラジオのパーソナリティなるものを引きうけることになろうとは思わなかった。  持前のド胸と好奇心でもってやってはきたが、今だに前の日は神経がたかぶってほとんど眠れないし、番組に入れば突然あらぬところでニュースアナウンサーを呼び出してみたり、午前と午後を間違えて時刻を伝えてみたり、スタジオ内での緊張感は想像を絶するものがある。つくづく、ズブの素人をパーソナリティに引っぱり出したTBSもTBSなら、引きうけてしまった僕も僕だ、と今ごろになってあきれている次第なのである。番組の企画、アイデアの面での本誌(「本の雑誌」)読者の御協力を心より期待したい(思いついたことを、読者カードに書き込んでいただければ、それで結構なのである)。  番組では、僕の方から希望して、「法律を作ろう」というコーナーを設けてもらった。聴取者から普段疑問に思っていること、不満に思っていることなど書いて出してもらい、問題解決のために法律や規則の改正をさせてしまおう、というものだ。安心して医者選びができるように、医師の段位制の導入を迫ったり、ハゲの理髪料の割引制を検討したり、といろいろやってきたが、我ながら思わず気が入ってしまったのは、「一〇〇円公衆電話オツリ出せ法」の提案であった。読者もおそらく御経験がお有りと思うが、急ぎの連絡を思い出して公衆電話を待つ列にならび、イザかけようとすると一〇円玉がでてこない。泣く泣く一〇〇円玉でかけるときほどくやしい思いをすることはないのである。そこで法律を調べてみると、ついこの間まで日本国において通用していた公衆電気通信法という法律があって、各通話区域ごとに通話料が定められており(普通の自動接続電話については一通話一〇円だが、区域が遠くなるに従って一通話の単位秒数が短くなる)、同法七八条第一項第七号により、料金の過払分は、六カ月以内に請求があれば返還しなければならないこととなっていたことがわかった。即ち、なんとついこないだまでは、一〇〇円電話のオツリは、少なくとも建前上は返してもらえたのである! しかし、この法律は、電電公社の民営化(NTTの設立及び同社への事業移行)により廃止されており、新たに電気通信事業法なるものが制定され、同法三一条により、「電話サービス約款《やつかん》」が認可され、電話料金などはこの約款により決められることとなった。しからば一〇〇円電話のオツリ問題はどうなったのであろうか。  そこでその「電話サービス約款」なるものがどこにあるのかが問題だが、これは、同法三二条により、電話局内の公衆の見やすいところに掲示しておかなければならない、とされている。僕は早速事務所のすぐ近くにある四谷電話局に出かけ、局内をキョロキョロしたが、どこにも約款が掲示されている気配はなかった。やむを得ず係員に名刺を出し約款の所在を尋ねると、その係員が「ハ、ハィ、少々お待ち下さい」といって狼狽しながら局内を探し回ること約五分、上司とヒソヒソ相談すること約三分、その上司が一緒になって探し回ること約五分、ついに約款は発見されなかったのである。「どうやら係の者が勉強用に自宅に持ち返ったものらしいです」と弁解しつつ係員は平身低頭、大久保電話局の地図のコピーをくれたので、僕は急遽タクシーを駆って大久保局へとび、ようやく約款を拝見する栄に浴した(その間、タクシー料金七百数十円を要した)。そして、問題の約款を調べてみると、何とそこには、過払料金の返還を定める規定はなく、そればかりか「一〇〇円硬貨を使用して行った通話について、通話料と一〇〇円との間に生ずる端数金額については返還しません」なる規定が導入されていたのである。  ここに至って普段より温厚である僕も激しく怒ったネ。怒った理由の第一は、払い過ぎ料金の返還を義務づけた法律があるのに、十数年間にわたり平然とおつりの出ない一〇〇円公衆電話を設置し、不当利得をムサボッてきたこと。第二は、コッソリ、電電民営化に便乗してこの不当利得を正当化する制度変更を行っていたことである。放送では、こんな細かい経過までふれることはできなかったが、大いにその怒りをマイクにぶつけたものであった。  稲垣吉彦の『ことばの四季報』によると、パーソナリティの資格とは、知識が豊富、好奇心旺盛、読書家、ユーモアに富み、信念があり、エネルギッシュ、聞き上手、ケジメがあり、外向的、討論得意、フレンドリーで、大衆性あり、且つ男である、などであるとのこと。僕などは、そのうちのいくつかに明らかに欠けるのだが、しかし、怒りの精神でもってこれをカヴァーしていきたい、と思うのである。    2  さて、そのパーソナリティを引き受けてから四カ月めになってしまった。ラジオ番組というものは、三カ月を1クールとよび、一つの単位としているもののようなので、「ぴいぷる」は既にして2クールめに入ったこととなる。実に早いものである。「本の雑誌」の読者各位からも、励しのお手紙など沢山頂き感謝しておりますが、勿論、いろいろ苦労もさせられている。まずもって当然のことながら月曜日をほぼ一日押さえられてしまうということは、タレントならぬ身の弁護士にとっては、かなりキツイことである。大きな裁判所は、いくつかの部に分かれていて(例えば東京地方裁判所の民事部は一部から三八部まであり、それぞれの部に何名かの裁判官が所属している)、部によっては月曜日しか開廷しないところもある。こんな場合は、近くに事務所のある友人の弁護士に協力をお願いするほかはない。  一番困ったのは服装である。敏腕でなる岩沢チーフ・ディレクターの言によれば、パーソナリティなるものは、スタジオ内において、精神と声を常にナチュラル・ハイの状態に保っておかなくてはならないのであって、そのためにも服装は明色で且つカジュアルなものでなければならない。パンツの色などもできるだけ暖色系統がよいとされ、僕が二十数年間馴れ親しんできたステテコの着用などは、論外として厳に戒められているのである。  弁護士などというものは、ほとんど四六時中背広にネクタイ姿でいればすむものであるからして、恥かしながらカジュアルなんぞというものは数えるほどにも持ち合わせていない。買い物下手の僕も、かくてやむをえず新宿界隈を徘徊し、真赤なトレーナーやら、黄とブルーのダンダラ横縞Tシャツなど数着を購入したのを皮切りに、徐々にそのファッションセンスの向上(?)に努めており、最近では、ノースリーブのサマーセーターで颯爽とスタジオに殴り込み、アシスタント・アナの牧嶋博子がキャッと叫んで二、三歩後ずさる、といった高水準(?)にまで早くも到達しているのだ。残るは、タンクトップ+ショートパンツ姿への挑戦であろうか。  このように、人知れぬ努力を重ねているパーソナリティにとって、一番の励みとなるのは、聴取者の反応である。特に番組を聴いて、矢も盾もたまらずにかけてきた、という感じの電話はうれしい。外国人の指紋押捺問題をとりあげたときに、スタジオにゲストで呼んだ韓国人指紋押捺拒否者の発言に長距離便トラックの運転手さんが運転途中の車を駐め、公衆電話から熱烈な共感のメッセージを送ってきてくれたときには、目頭が熱くなる思いがした。豊田商事問題をとりあげたあと、ラジオを聴いていたお年寄りから、豊田商事の強引なセールスをこうやって撃退した、という体験談が殺到したときにも、熟年パワーのしたたかさ、たくましさに大いに感動させられた。  聴取者の反応は思わぬときに殺到することもある。ステーションブレイクと呼ばれている時報前の時間調整用の余り時間に、なにげなく枝豆の話をしたときのことである。僕の話は「枝豆は成熟すると大豆になる。成長するにしたがって名前の変わる魚を出世魚というのだから、枝豆も出世豆といってあげたい」という、まことに他愛のないものであった。これに都内に住むある主婦から「枝豆と大豆は別モノである。私は以前に枝豆を作ろうと大豆を播いたが、枝豆とは違うものが生えてきた。農家できいたが別モノといわれた」という電話が入ってきたので、これをまたすぐに放送で紹介したことから論争に火がついた。スタジオの隣りに二〇本ほどの電話を置いた受信室の電話が猛然と鳴り出して、大豆と枝豆が同じか違うかという大論争へと発展してしまったのである。  百合ヶ丘に住む主婦からは「私の実家では、枝豆が枯れるとこの豆を水につけてつぶし、ゴ汁を作ったり、発酵させて味噌を作っている。枝豆は絶対大豆になる」、茨城県の農業経営者からは「枝豆も成熟すればナットーにつかえる」など、強力な大豆枝豆親子関係肯定説が寄せられたが、親子関係否定説もまた根強く、特に埼玉方面の農家からは「大豆と枝豆は全く別で、枝豆は大きくなっても緑色のまま。大豆のように黄色くはならない」という自信に満ちた反対意見がいくつか押しよせてくる、といった按配《あんばい》なのである。この大豆・枝豆論争は、約一時間続き、電話をうけるアルバイターの女性たちもネをあげてしまうほどだったが、結局結論はでないまま狂瀾のうちに終ってしまった。  調べてみれば、それも当然で、一口に大豆といっても三〇〇種類もの品種があり、枝豆用として栽培されているものでも、主なものだけで一二種。成熟して黄色になるものもあれば、緑色のままのものもある、という次第だ(増井貞雄著『NHK趣味の園芸作業一二ヶ月、野菜㈫』)。大豆にしてかくのごとし。聴取者にも毛色の変化はあって当然、まして、パーソナリティにおいてをやである。    3 『東京・住いの環境 '85』なるパンフレットが東京都の住宅局から出版されたのは、この八月のことである。僕も新聞のハシの方にある見出しにチラと目は配っていたのだが、都内各地域につき安全性・利便性・快適性などの各ポイントからその住環境適性を評価したというこの報告書が、まさか我が人生との軌跡と関わりを持っていようとは、夢にも思わなかった。コトに気づいたのは、夜のテレビニュースであった。ニュース・アナはこのパンフの中味にふれ、都の調査の結果、都内で最高の住環境を有するのは田園調布であり、その最悪のものは北千住と西小岩一丁目周辺であることが判った、と報じたのである。  田園調布が好環境であることは認めよう。北千住が最悪であることも、万人が納得しよう。マ、これは冗談だが、とりあえず北千住方面には親類もいないので、僕は認めてもよい。しかし、しかしだ、わが哀愁の西小岩一丁目、あの懐しい僕達の下宿克美荘アパートが静かに笑っていまも二〇年前そのままの姿でたたずんでいる西小岩一丁目(「事件その一 あゝなつかしや青春篇」参照。ただし、その後「克美荘」は消失、その跡地は駐車場となっているという悲しい知らせが最近入っている)を、まるで東京の生き地獄であるかのようにいわれたのでは、何とも立つ瀬がないのである。何とかラジオでカタキをとる方法は無いものかと、敏腕で鳴る岩沢チーフディレクターに相談すると「やってみましょう」と二つ返事。かくして『東京 天国と地獄』というテーマで番組を組むこととなった。  しかし、やはり田園調布を敵に回して西小岩一丁目に肩入れせんとするこころみは無謀の極みであった。田園調布といえば、僕の大好きな平凡社の大百科辞典にさえ、渋沢栄一氏が理想の田園都市を創らんとして造成した歴史を含めてバッチリ載っているだけのことはあって、最低保有坪数一〇〇坪、建ぺい率四〇%、下水道一〇〇%完備という最高級住宅地である。対する西小岩といえば、大百科辞典にも載っていない(小岩でも載っていない。載っているのは、小岩井農場でこれは全く関係ない)だけあって、下水道普及率未だ六〇%、最近克美荘の南隣のアパートが取壊しになったと思ったら、一〇〇坪余りの敷地に五軒も建売り住宅が建ったというぐらいのところなのである。番組では小岩商店街の昆布屋のオヤジが「田園調布には人情と昆布屋がない!」と叫び、克美荘の斎藤のオバチャンも「田園調布じゃ夜中までカラオケは歌えないだろ!」と気炎をあげたが、結局はそれまでのこと。駅前の噴水からして、長いこと故障してボーフラが湧きかかっているようでは、所詮西小岩一丁目は田園調布の敵ではなかった。  しかし、これほどの格差ができてしまったについては、都の方にだって責任もあんだろ。それをほっといて、西小岩をこんなにバカにしてくれちゃっていいのかね。報告の内容がいちいち当っているだけに余計シャクなのである。 ————————————————————————————       パーソナリティとの日々 TBSアナウンサー  牧嶋 博子 ———————————————————————————— [#ここで字下げ終わり]  岩沢チーフディレクターは大胆な人だ。ズブの素人パーソナリティ木村晋介氏に、入社三年目、ラジオの生ワイド番組初体験のアナウンサーをつけることを決めた。ベテランのしゃべり手にとっても、ラジオの生番組はむずかしいものなのだ。テレビとちがい、ラジオは「声」だけで、全てを表現しなければならない。まして、七時間半の生放送、プロでもちょっと尻込みする長丁場だ。飛行機の操縦を全くしたことのない機長が、セスナの操縦経験しかない副操縦士を従えて、ジャンボ機で空を飛ぶようなものである。  運命の日、四月八日の初飛行を前に、私たちは三月二五日ランスルーを行った。これは、本番と同じ形で行われる模擬放送だ。この日、木村晋介氏は、八時集合のところを大胆にも六分ほど遅刻してきた。放送の世界では、時間は命だ。「五分前精神」という言葉があるほどである。(いまだに木村氏は、集合時間を厳守したことがない)「さすが法曹《ホーソー》界の人間と放送《ホーソー》界の人間とはちがう」と妙な感慨をもちながら、レインボースタジオにはいった。  スタッフは、「木村さん、こんな風にくるくると指を回したら、時間がないということです」「こうやるのは、伸ばせということです」といろいろなサインを教えている。私は最も基本のことを一つだけ言った。「|赤いランプ《タリー》がついたら、マイクが生きているので、しゃべって下さい」  定刻にランスルーは始まり、最初の「飛びだせ一般人」のコーナーに、今の三倍の六人の人からの電話を受けたことを覚えている。木村氏は、電話の話を聞いていると、次に話す事を忘れ、次に話すことを考えていると、相手の話が聞こえず、その上時計を全く見ることができないという脳死状態に陥った。このコーナー終了後に、木村氏の目は、焦点が全く合っていない「点目《テンメ》」状態になっていた。ウーパールーパーのような表情で木村氏は、つぶやいた。「この紙は、左から右に読むんですねえ」 「この紙」とは、キューシートといって、放送内容が時間入りではいっている重要な紙、いわば飛行計画書である。木村氏は飛行計画書の見方も知らず管制官《ディレクター》の指示だけをたよりに、強制離陸させられていたのだった。  四月八日の初フライト、私たちはダッチロールしながらも、なんとか「|空を飛んだ《onAir》」。あれから、五カ月。時間という空を必死にかき分けるように進んでいた私たちも、そこに漂うことを覚えた。黙っていても時は流れるのだ。キューシートの見方さえ知らなかった木村氏は「今日は点目《フリートーク》タイムに何を話そうかな」などとつぶやきつつ、きっちり四五秒間に話を終える快感に取りつかれている。 [#改ページ]   熱烈ラジオ後遺症  昨年、風邪をコジれにコジらせて、ひどく扁桃腺を化膿させてしまい、摘除手術のため半月ほど入院した。  入院生活というものは生まれて初めての経験だった。最初の数日は痛みが激しく、とても退屈している余裕はなかった。しかし、だんだん痛みがとれてくるにつけ、有り余る暇をもてあまし、とにかくラジオを聴きまくった。こんなにラジオを聴いたのは、テレビが普及する以前の子どもの頃以来だったが、競馬やスポーツ中継のラジオアナウンスのその熱烈さには、改めて感動させられた。  聴いているうちに、いつの間にか息をつめ、身体を固くし、だんだんと前かがみになって、ラジオの向こうの空間をヒシとにらみ、その臨場感にのめり込む。一段落するまで自分のヘンテコな姿勢に気付きもしないで肩を凝らせている。興奮したアナウンスにすっかりのせられて一喜一憂、「ヨシ!」などとつい大声を出し、看護婦にたしなめられる始末である。  退院して、もとのテレビ生活に戻ったが、入院中にラジオのあの場外乱闘風のアナウンスに慣らされてしまった耳には、テレビのスポーツアナウンスはいかにものんびりしていて頼りない。  野球放送でも、タイムリーでないかぎり、ヒットが一本出たぐらいでは〈騒ぐな、打ったことは見りゃわかるだろ〉とでもいいたげに、「いいところを抜きました。ここで先頭打者が出たのは大きいですねェ〇〇さん」なんぞと冷静なのである。  こっちも、テレビとなると、肘枕などして寝ころびながら見ているのだが、せっかくヤマ場になって身を起こしかけ、このあたりで一丁興奮したろうか、と身構えているのに、すっかり水をさされてしまうのである。ラジオのような細かい経過を喋る必要はないにしても、もう少し一緒に興奮してくれないと、こちらの立場がないではないかという感じなのである。  入院するまでは、テレビの野球解説の金田とか、バレーボールの松平とか、ともかくアナウンサーを無視して一人で勝手にグングン舞い上ってしまう、というタイプの解説にはウンザリしていて、常づね「許せない!」と思っていたのだが、退院後は全く評価が変わり〈うーむ、そうだったのか、このかたがたはテレビをホットにするため、あらゆる批難中傷に耐えて今日までこうして頑張ってこられたのであるのか、そこに気付かなかったわが身の浅薄が恥ずかしい〉なんぞと妙に感じ入ってしまったのである。  こうしたラジオ生活の後遺症は当分の間つづき、しばらくはテレビの画面を視ながらラジオの音声を聴く、という変則的視聴法を採用し、テレビ生活本格復帰へのリハビリテーションとした。  だが、これで問題がすっかり解決されたというわけでもなく、テレビ画面を視る肘枕の寝ころび姿勢から興奮のあまりはね起きるにあたり、幾度となくラジオをケトばしてしまうのだ。  決死隊のごとく頑張るアナウンサーに対して寝ころんで聴いているだけでも申しわけないと思うほどなのに、足蹴にしてしまう結果となるのは、どうにもイカンであった。 [#改ページ]   江川よ、悪役にだって消え方のルールがある  思い起こせば一〇年前、江川があのズルッこい「空白の一日」理論をひっさげてプロ野球界に登場して以来、ぼくはただただ、江川憎しだけで野球を怒り、そして楽しんできた。江川がノックアウトされ、首をかしげながら憮然としてマウンドを降りる、そのシーンだけをイメージしながらテレビにしがみつく。イメージ通りにいかないとなればテレビをケとばし、いったとなれば翌朝はあらゆるスポーツ紙を買い込み、どの新聞をみても江川が負けておる、あの報知ですらやっぱり負けておる、と一日中幸せの味を反すうしていた。  その江川が、アッサリと、中国バリに責任をなすりつけて引退してしまった。困ったものである。江川といえば、史上最高(悪?)の悪役スターである。悪役スターには悪役スターの消え方のルールというものがあるはずである。悪玉に虐げられてきた善男善女を救う天誅の刃を、ひと太刀、またひと太刀と浴びせられながら、苦悶の表情を画面いっぱいにひきつらせつつ、それでもなお往生際悪く地面をいざり逃げる。ここに正義のとどめの一撃! ウギャギャギャ——ッ! というような消え方をして、初めて観客は大いに溜飲を下げるのである。それが一三勝し、リーグ優勝の末、自分から打った中国バリでギブアップというのでは、アンチ江川党は消化不良のまま置き去りにされた感が強い。まったくどうしてくれるのよ、といいたい。  今年は、後楽園のドーム新球場、ビッグエッグで試合が行なわれる。この新球場で江川がボロボロに打たれる、というのがぼくの夢でもあったのだが、それもかなわぬこととなってしまった。おそらく、今期のオープン戦、ビッグエッグでの初ゲームは、江川の引退試合に充てられるのであろう。悪役江川には、まったく似つかわしくない幕切れである。オープン戦では、江川が打たれたからといって、どうという感慨もわきようがない。どこまでも、アンチ江川党の心を踏みにじるやり口である。  超満員ドームでの初試合は、巨人=阪神戦あたりになるのであろうか。3対1で巨人リードのうちにむかえた9回裏ワンアウト。マウンド上の鹿取に代えて、ピッチャー江川が告げられ、拍手と歓声は最高潮に達する。江川は、ヒットを一本打たれはしたが、そこそこのピッチングで打者二人を料理し、マウンドを降りようとする。突然場内が暗くなる。レーザー光線によるピンスポットが、江川をくっきりととらえる。デーゲームなのにである。ドームでなければできない芸当である。チクショー!  マウンド近くに立ち止まった江川に、マイクと花束が渡される。江川が話し始めると、わき上がっていた場内が静かになる。 「本日は、わたしの引退試合にこんなに沢山ご来場頂いて、ほんとうにありがとうございます。長いといえば長い、短いといえば短い九年間でしたが、自分としては精一杯やってきたつもりです(ウソツケ)。そしてこんなに大勢の方々に見守られながら、マウンドを去ることができる。江川卓はほんとうに幸せ者だと思います(満場大拍手、ウッセー)。わたしをここまで応援してくださったファンの皆様、球団関係者の皆様、チームメイトの皆様に心から感謝申し上げます(満場拍手、歓声。江川ガンバレヨーなどの声援多数。ウルセーゾ本当に)。  こうして、心ならずも巨人軍を引退することとなりましたが、しかし……しかしこの偉大な巨人軍は……巨人軍は、永遠に……不潔です」(満場ズッコケル)  江川よ、最後にせめてこれくらいのサービスをしてくれよな、な、な。 [#改ページ]   わからん映画「竜馬を斬った男」  ひさびさに映画を観た。  ショーケンが、何億も借金をして作ったということで話題になっている「竜馬を斬った男」というやつである。ぼくは、めったに映画は観ないのだが、日曜日にちょっと仕事の打ち合わせがあって、新宿へ出たものの、夕方前に終わったので、ふらふらと映画館に入ってしまったのだ。それというのも、ショーケンという、あんまり世間に適合できない種類の人物が、どんな映画を観せてくれるのか、少々興味をそそられたからである。だが、結論からいうと、どうにもシマラナイ映画であった。  まずもって、スジ立てというものがまったくシマラナイのである。映画のタイトルが、「竜馬を斬った男[#「斬った男」に傍点]」というのであるからして、観客は最初っから、坂本竜馬が、主人公に斬られて死ぬことはわかっているのである。したがって観客の最大の関心は、竜馬を斬った男[#「斬った男」に傍点]なるものが一体全体、どのような生き様を映画の中でさらすのであろうか、という点に集中することになる。ところが、ショーケン演ずるところの主人公が、なかなか竜馬を斬らない。途中二回も、根津甚八演ずる、無防備極まりない竜馬と顔を合わせるのであるが、主人公はゼーンゼンこれを斬らないのである。こういうわけで、観客は、いずれ竜馬を斬ることになるに違いない男のチャンバラごっこに、ダラダラとつきあわされてしまう。  そして一時間数十分後に、ま,タイトルどおりこの男は、メデタク竜馬を斬る。それも、竜馬がひそんでいる場所に奇襲をかけて、油断をしていた竜馬を斬ってしまう、というのであるから、この筋書きには、特別の目新しさや意外性があるわけではない。ま、それはそれでよい。問題はこれからである。  かくして、この主人公は、タイトルどおり、やっと「竜馬を斬った男」になったのであるからして、これからどんなドラマがこの主人公の前に待ち受けているのであろうか、と観客は期待する。これは当然の成りゆきである。ところが、この主人公は、この数分後に、鳥羽・伏見の戦いで、あっさりと薩長軍の鉄砲に撃たれてしまう。両胸に銃弾を浴びて納屋の中にうずくまる主人公は、外を薩長軍の砲撃隊が勝鬨《かちどき》をあげながら通過していくのを、うつろな目で見送る。あ、なるほど。これはそーいう映画なのね。時代の流れに適応できなかった男の哀れを、ここで観客はうけとめればいいわけだ。あーそーかあ、これでジ・エンドなんだあ、と思う。  しかし、最大の問題はこのあとになる。こんどは主人公がなーかなか死なないのである。そして、死なない間に、つぎつぎに、映画の登場人物が、たまたまこの納屋に訪れて、いろいろごあいさつをしていくのだ。死んだと思ったショーケンが、人がくるたびに目をあけて、いろいろとお話をするわけ。ま、その不自然なこと。観客は、も、いいかげんにしてくれや、と苦笑しながら、このくどくどしいラストシーンに長々とつきあわされる。やがて、江戸から早かごで、この主人公の妻がかけつけるシーンが映され、それからさらに現在の京都らしき街なみが映され、やっと映画は終わるのだ。  ともかくこれはくどすぎる。一体全体この映画のハイライトシーンはなんだったのかね。ぼくにはまったくわかりません。ぼくの大キライな江川ですら、あんなにサラリとしたラストシーンを見せてくれたのに、いったい日本の映画はどうなっているのよ。ショーケンはどうしてこんな映画に何億円も貢ぐのよ。ともかくわからん、わからんの日曜日でありました。 [#改ページ]   競馬にゾッコン  僕が競馬に興味を持つようになったのは、カツラノハイセイコが春の天皇賞を勝った年だから、昭和五六年ということになる。この年の五月に、何とNHKの教育テレビのある番組で三週にわたって競馬がとりあげられ、僕はその最終回のレポーターをつとめることとなったのだ。確か「大衆娯楽への模索」というのが、番組のサブタイトルだったと思う。  僕は、その当時、サラ金の借金苦に悩む人の救済運動を進めていた中心メンバーの一人でもあったので、サラ金苦に陥る大きな原因の一つでもある競馬に対しては、マイナスのイメージが強かったのだが、しかしそうは言っても、かなりの数の庶民が借金苦を背負ってまでのめり込む競馬なるもの、一度その魅力を自ら味わってみたい、という気持も強かったのだ。自らの体験なくして、何でサラ金利用者の心をつかむことができようか、というのが大義名分であった。  かくして、ディレクター氏から「これで適当に馬券を買って下さい」と渡された�取材費�を元手に、渋谷、新宿、銀座の場外、府中の場内と馬券を買い漁った。何しろ、競馬紙の読み方も、オッズの見方もわからないままやっているのだから、ほとんどハズレまくった。しかし、ときには三百円、五百円ぐらいの本命サイドの馬券が当るときもあり、そんなときには小踊りして喜んだ。そんなことがあって以来、次第次第に競馬の魅力にとりつかれていく自分を押えることはできず、そして今日に至っている。重賞レースを当てまくった年もあったが、おおかたの年は、さして自慢できるような成果は得ていない。くやしい思いもずい分させてもらった。しかし、競馬は確実に僕を楽しませてくれている。そして、ときにはギャンブル好きのサラ金利用者に「そんな買い方をしてるから借金がふえるんだ!」などと説教の一つもさせて頂いているのである。  マージャンを少々やるほかは、競馬以外のギャンブルを余り体験していない僕がこんなことをいうのはおこがましいが、競馬の面白さの最大の理由は、競技の中心となる動力体が、馬という賢くて愛らしい、そして個性にあふれる動物であり、これをあやつる人間との組み合わせの中に、常に複雑な推理と新しいドラマが生み出される、というところにあるように思う。レースの動力体が無機的な器械にすぎない競輪や競艇とは、やはり根源的な違いがある。動力体そのものが極めて個性的で、それ自体がスターたりうる、というところがとてつもなくスゴイのである。そして、レースごとに新しいスターを生み出す推理ドラマの中に、社長であれ、サラリーマンであれ、工員であれ、警察官であれ、容疑者であれ、弁護士であれ、勝馬投票をする、という単純な行為によって、一エキストラとして出演することができる、というところが何とも楽しいのである。そして、デキ(運?)さえよければ、配当という名の出演料が(時には)支払われる、というところが、どうにも愉快なのである。  奇妙に「品位」なるものを振り回す僕の業界では、競馬ファンはほとんど見当らず、肩身は大変に狭いのだが、僕自身は大いに胸を張って、今後もエキストラ出演を続けていきたいと思っているし、競馬会が健全な大衆娯楽の提供者としての道を模索しつづけてほしいと思っているのである。  最後に、競馬会に素人競馬ファンとして少し注文をつけておきたいと思う。  僕はやはり、競馬ファンの最高の喜びは、自ら穴馬を探り出して好配当を的中させる——これにつきると思うのだ。ファン二年生のとき、山ほど積みあげたスポーツ紙と月刊誌の中から、バンブーアトラスを見出し、ダービーで単複連を的中させた時のシビレるような感激は初心者のころだっただけに今でも忘れることができない。この点からいうと、今の8ワク制というのは大いに不満が残る。例えば昨年の有馬記念、ギャロップダイナを本命に、単複連と買ったのだが、盟友井崎脩五郎の推すダイナガリバーに心はひかれながらも、一週間悩んだ末にせっかく切ることにした人気のメジロラモーヌと同ワクになってしまってはこのワクを買う気にならず、結局連勝をハズしてしまった。連勝も馬番で! というのが、僕の願いである。もちろんそのためには根本的な制度の改正が必要なのだが、こうすることによって初めて、代用品による的中もなくなるかわりに、競馬が推理ドラマとして完成されることになる、と思うのである。  もう一つは、素人がもっと楽しめる競馬にするために、新しい企画レースを考えてもらいたいのである。中山競馬場を出発点にして、府中の東京競馬場をゴールとする、超長距離のマラソンレースはどうか、という珍提案をしているのは、お茶の水の本屋のドラ息子坂本克彦だが、そこまで極端なものでなくても、公営競馬各地グランプリホースによる地域対抗レースとか、騎手のスター性をもっと押し出した、勝鞍数上位者による対抗レースとか、馬を知らなくてもファンが応援し参加したくなるような企画があってよいように思うのである。  それからもう一つ、競走中の馬の識別をもっとわかりやすくしてもらうことはできないのか、といつも思っている。馬番号は見えにくいし、帽子の色はワクできまっているし、勝負服は何やらダンダラ模様でとらえどころがない。プロ級のファンは、それでもすぐ判るのだろうが、初心者にはとてもとても難しい。自分の買った馬が、どこをどう走っているのかわからないほど悲しいことはないのだ。とりあえず勝負服の色を、もう少し単純化するぐらいの工夫ができないのだろうか。  そしてそして、最後の最後にもう一つ。僕は残念ながら万馬券なるものを取ったことがないのだが、今年はぜひせしめたいものとひそかにねらっている。万馬券こそ(配当一〇〇倍以上)、競馬ファン最高の栄誉である。馬券を額にでもかざっておいて子々孫々にまで語りつぎたいのがファンの真情である。かといって配当金もほしい。換金してしまえば、万馬券的中の証拠品を失うことになる。このジレンマを救うために、万馬券的中者には、中央競馬会発行の万馬券的中者証明を発行することにして頂きたい、と切に思うのである。「昭和〇〇年〇月〇日、〇〇競馬場第〇開催第〇日第〇レースにおいて、あなたはみごと万馬券を的中されました。その栄誉をたたえ、本証書によって顕彰致します。」せめてこれぐらいのサービスをしてもらいたいなあ。 [#改ページ]   正義の味方的'86プロ野球ソーカツ  ペナントレースも日本シリーズも終わってしまった。セリーグは広島、パリーグは西武が、そしてシリーズは西武が、それぞれドラマティックな逆転優勝を決めた。そして、そしてヤクルトは、両リーグを通じて最下位。  ほぼ、満足すべき結果である。  僕は、今年のペナントレースが始まる前に、野球ファンとして、本年度の応援努力目標をたてた。まあ、僕なんぞがどうイキんでみても、何ら試合結果に影響はないわけであるが、そうクールに考えてしまったのでは面白くも何ともないわけで、応援する以上はキチンと目標をたてて、というのが弁護士的なわけである。  今年の目標は次のようなものであった。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  一、ヤクルトの両リーグ通じての最下位。あわせて中畑の三冠王実現。  二、江川の最多勝、防御率第一位を断固阻止。  三、巨人の優勝阻止。できればBクラス入りをねらう。  四、清原のMVP実現。 [#ここで字下げ終わり]  僕のこの四大目標を見ていただけば、いかに弁護士というものが日ごろから、社会正義の実現に強い使命感をいだいているかがお分かりいただけよう。そう、僕はあの江川入団事件以来の倫理的アンチ巨人。しかしながら、今年のバヤイは、「ウチの球団は待遇がいいかんね」というアホな理由で中畑委員長を裏切ったにっくきヤクルト選手団は、徹底的にイビルこととしたのである。なお、清原への肩入れは、彼を採らなかった巨人に、「ザマミロ」といってやりたい一心にすぎない。  結果は、ほぼ満足だったわけであるが、しかし、僕にとって今年ほど悩みに満ちたペナントレースはなかった。その苦悩のすべては、目標のたて方に分裂があったことに起因する。要するに、アンチ巨人とアンチヤクルトのバランスの取り方が非常に難しかったのである。例えば巨人—ヤクルト戦でヤクルトがリードして終盤1アウトランナー2、3塁で迎えるバッターが中畑、というような場面。ここでは何としても、義理人情からいって中畑を応援しよう、と固く心に決めるのだが、長年のアンチ巨人党の哀しい性《さが》、いざ中畑が併殺打をうつと、ついつい「お、ヤッター!」とテーブルをたたいてしまうのである。  特にペナントの中盤、一方で巨人と広島がデッドヒートの優勝争いをしている最中というのに、南海がやたらと負けたり、一時ヤクルトの勝率を下回ったときなどは、巨人=ヤクルト戦を見るのが辛く、どちらを応援すればよいのか精神分裂をきたしそうであった。  こういうわけで、来年は、このオフの間にもう少し目標のたて方を研究してみたい、と思っているのである。  最後に、もう一言。今年の目標で達成されなくて良かったと思うことが一つある。それは、巨人がBクラスとならず、両リーグ通じての最多勝をあげて0ゲーム差の二位となったため、王監督の留任が決まったことである。正直いって、投手力を含め、今の巨人の本来のチーム力はどう見ても抜群。両リーグ随一のものである。これがこうして優勝を毎年のがしてくれるのははっきりいって、王監督のお力に依るところが大きい。巨人がBクラスに陥った場合、どうなっていたであろうか。王監督の後任に、あの長島さんがカムバックするとか、あの、あの、柴田さんが納まるとか、そういうプッツン型の方々がきてくれるのであれば、大変有難いが、しかし、そうウマくはいくまい。ごく普通の監督が来てしまったら、当分他チームは勝てない。ましてや、あの広岡さんでも来たら、ということを考えると、世も末の感すらある。そういう意味でも、今年のプロ野球の結果は、上々であったといわねばなるまい。 [#改ページ]   偏執的'87日本シリーズヒヒョウ  '87年日本シリーズは、西武VS巨人で闘われ、西武の四勝二敗で幕を閉じた。江川の入団以来の、倫理的アンチ巨人派のひとりであるぼくとしては、大いに満足のゆく結果だった。  巨人軍の打線の破壊力というものは、どうにもすごいもので、王監督という史上最大のハンデキャップを抱えながらも、ついに今年はリーグ優勝をしてしまった。しかしそのおかげで、久し振りに今年の日本シリーズは、アンチ巨人派にとって見ごたえ十分のものとなったわけである。  ところで、日本シリーズ西武優勝の勝因ということになると、結局守りと走りの力の差、と見るのが大方の見解のようである。なるほど、これは結果論としては正しい。だがね、勝負というものは、もっとダイナミックなものではないだろうか。優勝後の両チームのバランスシートをみて、勝因をうんぬんするなんていうのは、まったくナンセンスそのものである。どちらかが勝った、という結末が出た段階でなら、「勝因はアータラコータラ」と理屈をたれることぐらい、だれにでもできるのである。そういうヤカラは、仮に巨人が優勝したときには、「結局、攻撃力の差でしたねェ」などといって、お茶を濁すに決まっている。  もともと、攻は巨人、走・守は西武が上、ということは、だれもがわかっていたことで、それでも、総合力では両チームは互角というのがシリーズ前の下馬評だった。事実、その下馬評は正しかったとぼくは思っている。問題は、互角であったにもかかわらず、西武を優勝に導いた勝負のあやが、どこにあったかを探ることなのである。それは、勝負自体のダイナミズムの中にしか存在しないはずだ。  ぼくは、第一戦の清原の第二打席で、西武の優勝をはっきりと予測した。第一打席で清原にヒットを打たれた桑田に対し、巨人ベンチはなんと! 清原敬遠を命じたのである。いうまでもないことだが、このKK対決は、今シリーズの最大の呼び物であった。オールスターでホームランを打たれた桑田が、清原にどうオトシマエをつけるのか。それとも、返り討ちに遭うのか。優勝の行方もさることながら、野球ファンにとっては、実に興味津々の場面である。第一打席でヒットを打たれたのなら、桑田は当然今度は三振をとってやろうと、必死の投球をするに違いない。ここで、真正面からの力と力の決着がなされれば、その結果はどうであれ、まず一〇年二〇年は語り継がれるであろう名場面である。それが何よ! 敬遠だってさ! 王という人は、史上最低の監督というほかはないね。  短期決戦というものは、勝負の気合いというものが大切である。こんな、負け犬根性丸出しの野球をやっていたのでは、かりにその一戦は勝てても、もう勝負の気迫において負けである。森監督は、王が敬遠させた清原を、第二戦ではすかさず四番に起用、これが当たって第二戦では快勝した。これで勝負の流れは決まりである。あとは、仕上げを待つばかり。負け犬巨人は、せっかくのいい当たりが西武の野手の正面に、という不運つづき、運というものも気合いによって違ってくるという、いい見本である。麻雀でも、ビクビク打っていては、かえって相手に振り込むことになるではありませんか、ご同輩。  こういうわけで、巨人が勝った第一戦で、すでに西武の優勝は決まっていたのである。こんな大事なポイントに触れずに、今年のシリーズを論じている評論家ばっかりなのは、いったいどうなっているのか、といいたいね。 [#改ページ]   事件その五[#「事件その五」はゴシック体]  読んだふりして  読書篇[#「読書篇」はゴシック体] [#改ページ]   六法全書の楽しい読み方 「六法全書の楽しい読み方」というタイトルで原稿を引きうけてしまった。これはかなり無謀なことだった。土台、六法全書は楽しめない書物なのである。しかし、そんなことを今さらいっていても始まらない。何としても楽しい読み方をみつける他はない。ところで六法全書の楽しい読み方を発見するためには、まずもって、六法全書がなぜ面白くないのか、ということを明らかにし、そのうえで、六法全書が具有しているその面白くなさというものをいかに回避ないしは克服するのか、ということが検討されなければならない。  そのためにはまず、法律というものが、「知ラシムベカラズ、依ラシムベシ」という格言に代表されるように、一般大衆にその内容が解らないように、官僚や一部の専門家にしか理解できないように、作られているということを知っておく必要がある。  例えば、読者の皆さんはクレジット・カードをお持ちだろうか。このクレジット・カードなるものは、割賦販売法では「総合割賦購入あっせん」という難解な言葉で表現され、その要件は次のように定められる。 「それと引換えに、又はそれを提示して特定の販売業者から商品を購入することができる証票その他の物をこれにより商品を購入しようとする者に交付し、当該利用者がその証票と引換えに、又はそれを提示して特定の販売業者から商品購入したときは、当該利用者から当該商品の代金に相当する額を(中略)受領し、当該販売業者に当該金額を交付すること」(割賦販売法二条三項一号)  皆さんよく御存知のカードにして、法律というものにかかると、かくも何が何やらわからないものになってしまうのである。こんな条文をながめていると、この法文を作案した法制局の官僚たちの、「これなら、どうやったって一般大衆は解るメー」という自慢げな鼻のピクつき具合がうかんでくるではないか。  このように、敵側は、一般人には解らないように、解らないようにとコトを構えてきているので、これを楽しく読もうとする側は、その努力のウラをかいていく必要がある。そのためには、まず第一に、敵が気を抜いて作ってきている(といっても、無理にヤヤコシくし損っているという意味)法律をさがすという方法が考えられる。「気を抜いて」いるかどうかの目安は、条文が少く罰則などがついていないというあたりにある。その代表にあげられるのが「国民の祝日に関する法律」である。  三条しか条文のないこの法律も、例の「建国記念の日」を定めたときには紀元節復活是か否かということで大いに政治の舞台にさらされたことがあるのだが、普段はその存在することすら忘れられている。しかし、考えてみればこれほど国民生活に密着した法律もない。祝日が日曜と重なるときのいわゆる振替休日の制定もこの法律の改正によるのである。この法律の二条に、祝日の内容が定められていて、祝日の名称と月日だけでなく、その日を祝日とする目的が規定されている。  元旦。一月一日、年のはじめを祝う。といった按配である。  成人の日、一月一五日、おとなになったことを自覚し、みずから生き抜こうとする[#「みずから生き抜こうとする」に傍点]青年を祝いはげます(筆者傍点)。  親のスネをかじって豪勢なマンションに住み、高い振袖をねだってチャラチャラと成人式に出席するような女子大生ギャルなどは、本来全く成人の日を祝い、はげまされる対象でないことをいみじくもこの法律は明言しているのでありますね。  ちょっと意外なのが五月五日の子供の日制定の目的。  こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する[#「母に感謝する」に傍点](筆者傍点)。  子供の日に、母に感謝する必要があるとは知らなんだ。そうすると、母親は五月五日と母の日と、二週つづいて感謝してもらえるわけである。いいね。  というような具合に、祝日を一つ一つとりあげて詮索していくと、なかなか面白いのである。できれば、各祝日がその日に決まった理由などを、辞典その他書物にあたって調べるところまで徹底すれば理想的である。  この程度の、条文が少くて罰則もない法律としては、この他に、国籍法、領海法、教育基本法、利息制限法、身元保証に関する法律、失火の責任に関する法律(何と一条しかない)、などというとこがおススメ品である。  さて、法律が解り難い理由の一つは、条文が極めて抽象的なところにある。立法する側としては、抽象的にしておいた方がいろんなことがあってもまとめてメンドーみれるからいいんでないかイ、というような安易な姿勢があるのだが、しかし、その抽象さゆえに目が粗すぎて、ザル法となることも多いのである。それはともかく六法全書を楽しもうという我々としては、想像力によってこの抽象性を克服し、できるかぎり具体的なイメージをつくることが必要である。  例えば、遺失物法である。  御存知のように、遺失物の拾得者は、きちんと届出をしておけば、公告後六カ月以内に落し主が申出をしないかぎり、その遺失物をいただけることとなっている(民法二四〇条)。  幸か不幸か落し主が六カ月以内にでてきた場合であっても(このような場合を、幸と感ずるか不幸と感ずるかによって、その人の品性が問われるわけであるが)、拾得者は落し主から五%—二〇%以内の報労金をもらうことができる。  ところが、電車や駅の中とかデパートなどの施設内で物が拾われた場合にはだいぶ様子が変わってくるのだ。まず、一般のお客が私鉄の構内で忘れ物を発見し駅の管理者に届けた場合、六カ月たっても持主が出てこないときは、拾得者の所有となる点は変わりないが、出てきたときの報労金は拾得者と私鉄で折半になるのが法の建前である(遺失物法四条、同法一〇条)。  さらに、私鉄の職員が構内で拾得した場合には、その職員は全く拾得者としての権利は認められず専ら私鉄会社が所有権又は報労金をもらうこととなる。  そこで、我々は想像力を大いにたくましくしなければならない。  一般人が駅のトイレで一〇〇万円入りのハンドバッグを発見したとして、「ウム、ここで拾っては報労金が半分になるゾ」と考え、そこですぐに拾わず、足でケトばしながら改札を出て、外で拾って警察に届けたら一体どうなるのであろうか。はたまた、発見者が駅の職員の場合、自分で拾っては一銭にもならないので、友達に電話して来てもらい、友達に拾ってもらって駅長に届けたら、はたしてどういう取扱いになるのか。などなど、イメージを豊かに広げ、自問自答するのである。自分で考えているだけでは面白くない、という方は、いろいろなケースを考えて、担当官署などに問いあわせて見る、という楽しみ方もある。担当者が即答できず、あわててたらい回しにするところなどまで想像力を広げていただきたいのである。  なお、昨年の国鉄白書によれば、国鉄での忘れものは現金だけでも年間に三〇億二七〇〇万円にものぼったとか。これについても、国鉄が落し主に報労金を請求できれば赤字解消の一助になるであろうが、残念ながら国鉄などの公の法人には、報労金請求権は認められていないのである(現在、国鉄はJRとなり民営化された)。  この種の楽しみ方ができる法律としては、この他に、競馬法、宝くじ法などがある。例えば、友人から金を預かり、A馬の馬券(法では勝馬投票券という)を購入するように頼まれた者が、誤ってB馬の馬券を買ってしまったところ、このB馬がたまたまドン尻人気であったにもかかわらず意外に大駆けし、万馬券(一〇〇倍以上の配当の馬券を俗にこう呼びます)となってしまった場合、この配当金の請求権は一体誰に属するのか。ぜひ一度中央競馬会の見解を質《ただ》してみたいと思いませぬか。  最後に少し六法全書になれたならば、法律用語を駆使して、楽しい私生活を送っていただきたいものである。  例えば、御主人が深夜千鳥足にて御帰宅の際には、「あらあなた、夫婦の同居義務はしっかり履行されるのね。協力扶助義務の方はどうかしら」などとそっとつぶやくのである。御主人は、どうも悪い弁護士がついているらしいなどと疑心暗鬼、翌日からは御帰館が早まるかもしれんよ。 [#改ページ]   ほんとに頭のよすぎる本  八丈島のロックンロールという話を三回連載させて頂きまして、先号(「本の雑誌」32号)はお休みしましたところ、「近いうちに再び木村さんの文が載ることを期待します」(二三歳・未婚・女・会社員・良恵)などという感動的な励ましのお葉書を頂き、三八歳・既婚・男・弁護士・晋介はいたく感激している次第です。  そもそもあのあとは、僕の多年にわたる研究成果を生かし、「歌舞伎町のママさんたち」という連載にとりくむつもりで、すでに第一話「ゴールデン街の夜霧に消えた『銭』のマコ」、第二話「『ふらて』のママは、キングコールの星くずがとっても好き、とつぶやいた」、第三話「『アレクサンダー』の通代ママは、昔『アシベ』にいたんだってさ」、第四話「里芋の煮つけには『道』のママの京都弁がよく似合うね」、第五話「『フタバ』のママがマスターのピアノでうたう昭和枯れすすきは最高だよ」、と五回分の連載タイトルまで決まっていたのです。ま、タイトルだけなら何ぼでもすぐできますが。  ところがそのころ、私事にわたりますが、前にいた法律事務所でくすぶっていた僕の独立問題が七月になって急速に進展、一〇月一日から新事務所開設ということで話がついたものですから、夏の間は独立準備にむけての大忙がし、そのうえ、独立を機に今までやってきたサラ金問題について一冊本をまとめろと勧められて、主婦と生活社から『サラ金トラブルうまい解決法』という本を処女出版することになったので、その執筆も合わさってのドタバタ騒ぎ、そしてその最中に、あの宴会大好き人間の椎名誠がやってきて、「せっかく念願の独立をするんだから、ちゃんと宴会はやるんだろうな」などと上目づかいで迫るので、いよいよ事務所開設パーティーの準備も重なるということで、まさに狂乱の約二カ月半。かくして、せっかくの歌舞伎町のママさんたちの企画もすっかりかすむ結果となったのです。  何分にもそういう混乱の中ですので、開設パーティ会場ばかりは早々と決まったものの新事務所の場所はいつになっても決まらず、一時は大変御心配をお掛け致しましたが、わが木村晋介法律事務所は、新宿御苑前の一角にやっと一〇月一日よりオープンすることとなったのです。新事務所は交通至便、駅から徒歩一分二〇秒、環境なかなか静謐にして良好、たまたま椎名誠の執筆事務所から六メートル半しか離れていないため、深刻極りなき離婚事件の相談中、ビルの下から「オーイ、きむらあー、今日の晩メシどこにするんだアー」などという、バカな作家の胴間声が時々きこえる点だけを除けば、何の文句もつけようのない一八坪少々ということになったのです。おついでの際ぜひお立ち寄り下さい。  しかし、自分の事務所を新しく持つということは本当にうれしいことです。今までだと九時すぎにウチを出ていた僕が、同じ九時すぎには事務所に座っているというわけですから、いつまで続くかは別として、これはやはり大したことなのです。仕事で外に出ても、僕がいない間に事務所がどこかに消えてしまいはしないかと気もそぞろ、一日に五回も電話をしたりしております。また、夕方に帰って無事な事務所の姿を見ると「ああ、やっぱりあった」などと、思わず目頭をあつくしたりしております。その気分たるや「事務所ちゃん、一人にしておいてゴメンネ、もう僕が帰ってきたからね、さみしくないね。チュッチュッチュッ」というような、これはもはやどこか狂気にまみれたもののようであります。  そして幅約二メートルの両袖机に向かい、黒いレザーの椅子に深々と腰かけると、何か世の中のことがすべて見通せるような、一種壮大な気分になり、ついついなれない読書などをしてしまうのです。  こういう次第で、新しい事務所で最初に読破したのが、問題の『頭のいいクレジットカード活用法』(倉石俊著、ダイヤモンド社)という本でした。僕は、通産省の産業構造審議会というところで、クレジットに関する法改正を検討する専門委員を引きうけた関係で、今日におけるクレジットカードの正しい活用法というものは、どないになっておるのか、はたまた、それを踏まえたうえでの正しいクレジット法制のわが国における展開はいかにあるべきか、というようなことをこの本一冊でてっとり早く知ってしまおう、九八〇円でイッキに学んでしまおう、という安易な気持でこの本を買ったのです。ところが、この本は、そうした僕の期待に背くものでした。まず、法律的考証に間違いが多く、「生鮮食料品には割賦販売が認められない」とか、「分割払いは三回分以上からという規定が割賦販売法にある」とか、専門家が読んだらびっくりするようなフレーズがでてきます。それはまあ目をつむるとしても、一番まずいのは、「第五章、年収四〇〇万円で五〇〇万円の生活をする法」というところで、ようするに、カードで買物をするといろいろ割引などがあって年に一〇〇万円トクする、というのです。そんなこといったって、仮に全商品が二割引で買えるとしても(そんなバカなことはないけど)、年一〇〇万円トクするには、カードで五〇〇万円分の買物をするしかないよ。年収四〇〇万円のヒトが五〇〇万円も買物したらどーなるんじゃホントニ。その答えがあるのか——と読んでいくと、最後の第八章「トラブルが起きたときどうする、どうなる」のところに、「イザとなったら自己破産する勇気をもて」だと。クレジット破産が増えて、弁護士も裁判所もアップアップしているのに、何でこんな本が出るの、と木村晋介法律事務所は今激しくオコッておるのであります。 [#ここから1字下げ] (追記・倉石俊氏はその後、ここで紹介した本のパート㈼ともいうべき『クレジットカードは何を選んでどう使う』〈ダイヤモンド社〉という本を出された。これはケチのつけようのないスグレ本で、僕も大いに参考にさせて頂いた) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   これがお巡りさんの勉強本だ  いやはや今年も暑い夏であった。ところで突然ではあるが、この夏、暑さにも負けず一番強かったオヒトは一体誰だったのであろう。  政治家であろうか。この夏、一番の注目を集めた政治家といえば、何といってもあの山東昭子センセイである。ゴルフ番組の収録のために、委員会をケトばしてしまったというのであるからして、強いといえば、マッタクのこと強いのだが、しかし�陳謝�でチョンの目論見は見事はずれ、マスコミにたたかれて委員長辞任となってしまった。謝っても許してもらえなかった、というのでは、やっぱし強いマスコミにはかなわなかったのネ、という点でかなりの減点である。  強いマスコミといえば何といってもテレビである。テレビといえばテレビディレクターである。この夏、話題のテレビディレクターとしては、女湯を得意のビデオで隠し撮りした某氏をあげぬわけにはゆくまい。何とか謝って、略式起訴の罰金には持ち込んだものの、本業で撮ったテレビドラマは放送見合わせ、業界からは当分の間出入り禁止というのであるから、この強さも本物とはいえない。強いテレビも結局、スポンサーにはかなわないのである。  強いスポンサーといえば大企業、大企業といえば丸紅である(この展開には少し無理があるかナ)。丸紅の元専務伊藤さんは、ヒラにヒラにと謝って、ついに執行猶予確定。これにて、あと数年無事にすごせばオツトメには行かないですんでしまう、というのであるから、強いということはやっぱり強い。だが、そうはいっても、有罪は有罪。何かコトを起こせば塀の中。この強さも本物ではないネ。ホラ昔からいうではありませんか。�ゴメンで済めば、警察はいらないヨ�と。やっぱり、大企業重役もお巡りさんにはかなわない。  かくして、問題はこの夏のお巡りさんである。この夏最強のお巡りさんは、誰が何といっても神奈川県警。検察庁は、共産党幹部宅の盗聴をやっていた神奈川県警の警官二名を起訴猶予処分とした。起訴猶予というのは、先ほどの大企業重役の�執行猶予�というのとはまるでモノが違う。裁判ザタとは致しません。全くオトガメナシということである。その理由は、「組織的犯行で、末端の警官は指示で動いただけだから」というのだから、恐れいるほかはない。暴力団などによる組織犯罪で、犯罪を実行した末端の組員が不起訴になる、ということがないわけではないが、これはその組員がすべてをペロッて謝ってしまい、その結果幹部の主犯格が逮捕された、というようなケースに限られる。この神奈川県警のように、犯行は否認するは、ウエが何を指示したかはいわないは、被害者には謝らないは、というようなケースで、こんな理由でオトガメナシになったという例は、前代未聞である。政治家も、テレビディレクター氏も、大企業重役も、すべてを認めて謝っているにもかかわらず、結局許してはもらえなかったこの夏、このお巡りさんたちの強さには、ただただ、ウヘーッとあきれるばかりである。強いねェー。  こうして考えてみると、最近強いお巡りさんたちのパワーがジワジワとわしらの生活領域に浸透してきているぞ、と感じることが多い。改正された風俗営業法や、各地のカラオケ騒音条例なんかでも警察の立入権限が認められたことを含め、大幅にお巡りさんパワーがのびてきている。少年非行対策のため、とかで、学校と警察の情報ネットワークは、昔とは較べものにならないぐらいに広がってきている。コトの良し悪しは別として、現実にお巡りさんたちの�生活浸透�が進んでいく以上、お巡りさんたちも、日本国民の生活がどんな具合になっておるのか、ということについて、イロイロとお勉強をしなければならなくなるのは当然のことである。  さてここで、この強いお巡りさんたちの、ツヨーイ味方である参考書を御紹介しよう。『ミニ捜査参考図』(東京法令出版)。この本は「捜査官が犯罪捜査を進めていく上で各種物品についての正確で豊富な知識を持つことは極めて大切」とのことから、警察庁刑事局の肝いりで作られたものである。ピストルや刃物等の図解があるのは勿論だが、ヘアスタイルの種類からひげの種類、帽子の型からパンツのアレコレ、ブランドマークの見分け方まで、実に懇切なる御指導が頂ける。男のヒゲの基本スタイルが、三三種類もあるとは知らなかった僕などには、大変にお勉強になるシロモノである。面白いのは、巻末にある、隠語、若者用語、のリストアップである。若いお巡りさんや、オジンお巡りさんが、やっチャン界、暴走族界、スケバン界など各界各層の皆様とお話をするにあたって、恥をかかないように、という暖い御配慮のタマモノである。「犬の卒倒=ワンパターン」なんていうのから始まって、「財布がギョーザ=財布が小銭で膨らんでいること」「18キン=成人映画」「ヤリポン=妊娠」など約九〇〇語が厳選ラインナップしている。  このように、まことに結構な有意義な御本なのであるが、たった一つ欠けていたのが、「絶対バレない、電話盗聴システム図解」というやつで、これは、いずれ別冊発売になるものと僕はにらんでいる。 [#改ページ]   サラ金問題の本質本  昭和五八年は、サラ金トラブルが激発し、最大のピークをむかえたときでした。そのさ中に、『ドキュメントサラ金』(ちくま文庫)の筆者、江波戸哲夫氏は、当時代々木総合法律事務所に属していた僕を尋ねて来られました。そして、サラ金問題についての本を執筆するので取材をさせてほしい、というのです。  僕はといえば、そのころ、津波のように襲ってくるサラ金相談の対応に忙殺されていたときでしたから、きちんとした時間をとって江波戸氏の取材に応ずることも許されず、ほとんどは、事務所の近くのレストランやソバ屋で昼食か夕食を食べながらのインタビューになってしまいました。そんな失礼な僕の取材のうけ方にも嫌な顔一つせず、実に根気よく、幾度も足を運んで僕の生い立ちから弁護士としての実生活、サラ金問題にかかわってきた経過まで実にきめ細かい周到な取材をしていかれました。  それまでにも何人かのライターの取材をうけたことがありましたが、江波戸氏の取材の角度、彼自身のサラ金問題に寄せる関心の方向は、それまで僕が経験したことのないものでした。サラ金トラブルの発生する土台を、業者側の高金利と悪質な取立ての方におき、多額の債務を負った借主を可哀相な被害者として論ずる、というのが、それまでのサラ金問題をとりあつかうライターの基本パターンでした。  サラ金問題が社会問題化した当初の数年間ならば、確かにそうしたパターンで説明することもできました。しかし、その後、競争の中でサラ金業者の平均金利もかなり引き下げられ、悪質な取立ても、社会的批難と行政指導、被害者からの損害賠償請求などで、一時にくらべれば格段に減少した中で、なぜサラ金トラブルが再燃し、むしろ、昭和五三年ころの第一次ピークを大幅に上回る規模で広がってきたのか、を説明することはできない、と僕は考えていました。  サラ金トラブルの相談にのっている人々には自明のことだったのですが、このトラブルはもともと、サラ金業者の強さと、借りる側の弱さとが結びついて初めて生まれてくるものなのです。この弱さ、というのは、所得水準が低いということであったり、金銭感覚がマヒしているということであったり、ギャンブルマニア的性格であったりするわけです。サラ金業者の業態が多少とも改善されてくるなかでは、すべてのサラ金トラブルがほぼ例外なく借りる側の何らかの弱点を媒介して初めて発生してきている、ということは、もう少し強調され、精密に分析されてよいはずだ、と僕は考えていました。ですから、僕自身も、サラ金トラブルの中にドップリ身をつけている者として、それまでのマスコミのサラ金問題の把え方には大いにあき足らないものを感じていたのです。  江波戸氏の取材の角度と方向は、サラ金地獄におちいってしまった人々、それを救おうとする人々の生き様や、ドロドロした心の内面に遠慮なく入り込んで行き、これを時代の変化の中で把えなおしてみよう、とするものでした。僕自身が悩んでいた時であったからこそ、こうした江波戸氏のサラ金問題に対する澄んだ視線は、ものすごく新鮮に感じました。  本文中に、サラ金に追われている取材相手を待ちながら、その家の少年と昼食を食べる場面があります。少年の作ってくれた、味噌を入れすぎて辛くなってしまった味噌汁を飲み(味噌が)『少ないより多い方が気前がいいと小学校五年の料理人は判断したのだろう』と記しています。  少年の置かれている状況の中で、彼のくったくのない健気さを見たとき、氏は涙の出るほど哀しく感じていたのでしょう。それでも、氏の視点は、安易な同情の目ではなく、泥沼の中からはいあがる気力も稀薄な母親とその少年の生活を、他人の伺い知ることの出来ない部分も含めて、さらけ出そうとするところに置こうとしているのです。  僕も、自ら取材をうけると同時に、現に僕が借金の整理を引きうけている、解決途上の人たちを何人か紹介してさしあげました。プロローグにでてくる横田透、猛烈サラリーマンの長谷俊二、この二人は僕が紹介した、サラ金による生活破綻者です。この人たちを江波戸氏に紹介するとき、僕は一つの条件をつけました。それは、この人たちを単純に気の毒な被害者として、美しく書きすぎないでほしい。この人たちの心の弱さ、虫の良さ、金銭感覚の甘さ、見栄の強さ、ふとした時にみせるしたたかさ、そういうものを含めたトータルな人間としてとりあげてほしい、というものでした。  何回かの僕と江波戸氏との話し合いの中で、この人はそれができるルポライターだ、ということがわかっていたからです。江波戸氏は私のつけた条件を見事にクリアーし、そうしたトータルな人間の営みの背後に、そうした人々をつくり出した高度成長時代からオイルショック以降の低成長とも「安定」成長ともいわれる時代の移り変わりの影を、くっきりとうかびあがらせるところまでサラ金問題を突きつめてしまいました。  江波戸氏がこの本の中でとったこうした記述のすすめ方に対しては、サラ金破綻者に対する一種のつきはなした冷たさを感じられる読者もいるかもしれません。しかし、サラ金破綻者の救済と更生に長年かかわってきた者の経験からは、こうした一つ突きはなした姿勢がないと、破綻者の人間そのものがつかめないのです。人間がつかめぬことには、真の解決もありえない。安易な同情や義勇心からの「救済」は、サラ金破綻者を立ち直らせることにつながらず、必ずトラブルを再発させる、というのが僕の経験からいえる一番確かなことです。一見冷たそうに見える江波戸氏の視線の中にこそ、人間に対する本当の暖かい心が感じられます。人間が好きなのだなあ、とつくづく感じます。江波戸氏がこの本に託したメッセージは、�人間がんばれ�ということにあるように思います。こんなすばらしい著作にささやかな力をかすことができたことを、僕は心から感謝しています。 [#改ページ]   弱さのしくみを理解せしめよ  どういうわけか、僕の友人には小説好きが多い。読書好きの活字中毒が高じて、作家になってしまったやつまでいる。  この手の仲間は、「お前、小説ぐらいちっとは読んどかないと、人間的にカタワになるぞ」などと脅し、短編小説集なんかをもってきて頻りに勧める。僕はどうも昔から小説を読むのが苦手だ。気は進まぬがせっかくのお勧めでもあるので、短編の中でも一番頁数の少なそうなやつから読み始める、という接配だ。  私の家族も結構読書好きで、女房殿は、現在半村良に凝っていて、8ポ二段組みで一巻二〇〇頁余り、全七巻もあるという「妖星伝」を夢中で読破中。こんな面白いものはないから僕にも読め、という。当分の間黙殺していると、むきになってあらすじを説明しだした。そのうちに、一揆の農民を助ける武士で、僕のようなのがでてくるといいはじめる。もとより半村良のファンである女房は、作者が作中の人物にいわせている「弱い者は、自分から助かるために何もしない。自分の弱さを解り、そのしくみを理解しない限り、いくら救ってもキリがない」などという言葉に力を得て、何のことはない、結局、サラ金破産者の救済に追われて息切れしている私の多忙ぶりを批難しているようなのである。僕に似ているという武士は、長年の疲れで、身体を悪くし、早逝してしまうそうである。  僕が早死にするかどうかは別として、「弱さのしくみを理解せしめよ」との半村良の切り口は鋭い。うーむ。 [#改ページ]   国語の授業は生体解剖  久し振りに早い時間に帰宅すると、まだ娘たちが起きていた。宿題でもしていたのだろうか、教科書が散らばっていた。いまなにを勉強しているのだと聞くと、太宰治の「富嶽百景」だという。  自慢じゃないが、僕は授業中に教科書を読んでいるような生徒ではなかったし、そのうえ余り小説などにはなじまない人生を送ってきている。「富嶽百景」といわれたって、あれ? 百景もあったっけ? と、せいぜい煙草マッチに刷ってあった葛飾北斎の版画絵�富嶽三十六景�の方しか思い浮かばない。  どれどれ、どんな小説だったかいナと寝転びながらパラパラとめくって吹き出した。しばらく読んでまた吹き出した。ところが娘は、教科書を読んでおかしいことなどあるはずがない、なにをいったい笑っているのかと、親をまったく異星人のごとくに扱うのである。  ぼくが笑った箇所は、太宰が井伏鱒二と御坂峠の三ツ峠へ登るくだりである。 「急坂を這《は》うようにして……よじ登る私の姿は、決して見よいものではなかった。……茶屋のドテラは短く、私の毛臑《けずね》は、一尺以上も露出して、しかもそれに茶屋の老爺《ろうや》から借りたゴム底の地下足袋をはいたので、われながらむさ苦しく、少し工夫して、角帯をしめ、茶店の壁にかかっていた古い麦藁帽《むぎわらぼう》をかぶってみたのであるが、いよいよ変で……」  これは、どう見ても吹き出さざるをえない恰好である。工夫してこんな姿になったというのがもうたまらない。だが、わが娘は平然としたものだ。「ドテラ」を知らなかったのである。「角帯」も「地下足袋」も知らなかった。どういう姿になってしまったか想像できないのである。いろいろ説明しても、フーンとまるで反応がない。  そういう娘といえば、袖から指先が二センチほどしか出ていないGジャンに、篭かきでも穿いていそうな妙ちきりんなズボン姿なのである。太宰治が見たら、考え込んでしまうだろう。  溜息が出たが、しかし気を取り直して次の箇所についての娘の御意見を聞いてみた。  濃い霧で眺望がきかないのを気の毒がった茶店の老婆が、富士山の大きな写真を高く掲げて崖の端に立ち、「この辺に、このとおりに、こんなに大きく、こんなにはっきり、このとおりに見えます」と懸命に注釈するというくだりである。  この老婆の姿なら想像できるだろう、笑えるだろう、とぼくは娘に迫った。ところが娘は、冷たく言いはなったのである。 「アノですね、そういう場面では生徒としてはですね、そのときの老婆の気持ちを二〇字以内で解説したりしなくちゃならないの。のんびりおもしろがってるヒマなんかないのよ。だいたい、太宰治なんて中学のときの『走れメロス』でうんざりしてる。なん度もなん度も同じ所を読まされて、一節ごとにそのときのメロスの心境にいちばん近いものは次のうちのどれかマルをつけなさいだョ。おもしろくもなんともないョ、ふンとに」  そうだったのか。ワリかった。おれがワリかった。国語の授業とは、そういうものだったのか。ぼくはうなだれ、「単元の研究」という問題ページを眺めた。 それぞれの場面での登場人物の心境を説明せよ。 作品中の登場人物に対する作者の思いをまとめよ。 この作品の文体の特色を考え、それが作品のうえにどんな効果をもたらしているか考えよ。etc、etc……  駄目だ、こりゃ。おれ、かなり本気で教科書の編集者に言っとく。小説を読んでいちばん大切なのは、読んだ人の心象風景ではないですか。こんな設問だしたんじゃあ、作品はもう生体解剖されたも同然。わが友椎名誠の作品も、最近教科書に載ったそうだけど、いったいそのあとにどんな設問がついたことやら、本当に心配。もう少し、教科書編集者に文学を愛する心があるのであれば、せめてこんな設問はやめてほしい。 [#改ページ]   僕の好きな本  原稿を書いている今日は、昭和六〇年一月一日である。あと、三週間余りでもって、僕は、実は四十歳をむかえてしまう。だから何だ、といって特別の感慨があるわけではないが、ともかく何となくこれは人生の節目というものであり、一生の折り返し地点のようなものなのである。  僕の好きな本に(これまた小説でなく恐縮だが)、『故事ことわざ辞典』(鈴木棠三・広田栄太郎編、東京堂出版)というのがある。読んで名のごとく、故事成語とことわざを集大成したものだ。五十音順に整理されており、残念ながら事項別の整理がないので、余り物事を知らない僕は若干引きづらい面がなくもないが、ひまなときなどに、思いつくままにパラと開いてみても、結構イケる本なのである。  そこで、とりあえず今日は、「しじゅう」というあたりを開いて見たのである。まあ、大体において事前に予想できたことではあるが、案の定ロクなことは言っていないのである。まともなのは、「四十にして心を動かさず」と一つあるだけ。これは四十不惑と同義なのだが、その前後を見ると、すぐにこれとは正反対の四十歳の現実を示す言葉がならぶのである。  曰く、「四十過ぎての道楽と七つ(午前四時)下って降る雨は止みそうでやまぬ」  曰く、「四十坊主は鹿の角」(中年の坊主は堅そうでもろく、堕落しやすい、の意)  よくも言ってくれたものである。が、しかしまあ四十男の胆の座り具合などというものはせいぜいそんなものでありましょう。問題はむしろ体力と気力である。僕は日頃から、弁護士として成功するための三大要素は何か、と自問し、「知力・徳力・政治力にあり」とする一般の通説を邪説として斥《しりぞ》け、これを「体力、ハッタリ、人づきあい」にありと喝破《かつぱ》してきたのであったが、それでは四十歳の体力について古人はどのように考えておるのであろうか。  曰く「四十くらがり」(急に視力がおちる意)  曰く「四十がったり」(急に体力、気力がおちる意)  何ともまた、ひどいことを言ってくれるものである。「くらがり」はまだしかたがないとしても、「がったり」はないでしょう。何ぼ何でも。 [#改ページ]   少年マンガとあの広告  先日、学生時代の友人たちと数人で旅行をした。たまたま、帰りの電車の網棚の上に週刊少年マンガ誌の置き捨てがあって、それを仲間の一人が手持ち無沙汰に手に取ってページをめくっていたのだが、しばらく見ていたその友人が、「我々のころと随分変わったなァー」と言い出したことから、ひとしきり車中で少年雑誌論議に花が咲いた。  論議に参加したのは、みな少年時代、学生時代に、「巨人の星」や「あしたのジョー」に胸を踊らせた者ばかりだったので、まず第一に気付いた変化は、シリアスなスポーツ根性ものが激減した、ということだった。スポーツものはあるのだが、やたらと可愛い女の子が回りをチョロチョロするし、すぐにズッこけてしまう。要するに軟派なのである。これは正しいスポ根ものではない。スポ根全盛時代に多感な(?)少年時代を過ごした我々にとって、これは淋しい限りだ。  つぎに問題になったのが、登場人物の容姿がおしなべて優しくなり、ほとんど少女マンガと区別がつかない、ということだった。主人公の少年達も、鈴を張ったような目をしているのだ。また、主人公が少女というものも多い。執筆陣を見ると、女流作家も多く、これも僕達の少年時代には絶対になかったことだ。ま、しかし、これは女性の社会進出を示すものであって、大変結構なことであり、なんら我々風情が文句をいうべきものではない。  最大の問題は広告である——ということで、車中の元少年、現在中年前期集団の意見は熱い一致を見た。  ほとんどの広告が、こうすればカッコ良くなる。逞しくなる、というものばかりである。  その中でも、健康器具の広告のように、努力してカッコ良くなろう、というものはまだ許そう。このカッコ良くという夢は、オジさんたちも大いに共感しうるのだ。「二〇〇種類の宇宙鍛練法がギッシリのNASA式体力増強器」とか、「全身養成格闘ギプス」などは、星飛雄馬の世界そのものだし、大山倍達・ガッツ石松推せん、ブルース・リー考案に係るドラゴン・アームなんかも、なんとなくケンカする時強く見えそうなんで、この際許してしまいたい。  しかし、「毎日一粒飲むだけでグングン背が伸びる」というカルシウム入り伸長剤の全面広告が五社も六社も載っているのは、一体なんなのか。カッコ良くなりたい、というのは良いけど、「飲むだけで」という安易さは断固いけませんよ——などと激しつつ広告の説明文を読んでいくと、「座高はそのままで脚だけが伸びます」だと。そんな便利なものなら、どんどん飲みなさい。オジさんもほしい。 [#改ページ]   時代はもはや草野球  ともかく本を読むのはニガテなのである。この原稿を頼まれたときも�アノ、本はあまり読まないんですけど�と牽制球を投げたのだが、�法律書を読むというのではどうでしょうか。それに、本のことでなくても、例えば新聞のことでもイイんですから�とすんなりかわされてしまい、�そうね、新聞は読んでますね、一応�というようなことで安易に引きうけてしまったのである。  本を読んでないくせに、本来書評誌[#「書評誌」に傍点]である「本の雑誌」誌をはじめ、結構アチコチにエッセーもどきを書いたりしているのだから、本当にずうずうしいものである。  考えてみると、僕という人間は、本を読まないのに本を出してしまったり、歌を聴かないのにカラオケしてしまったり、ロクに寄席にも行かないのに落語を演ってしまったり、今までラジオなど何年も聴いたことがないのにパーソナリティなるものを引きうけてしまったり、相当ずうずうしい人間だということに気づいてしまう。とても他人《ひと》様に見せる芸ではないのに、頼まれてしまうというのは、何か時代が草野球なのであろうか。プロが万一エラーでもすれば、腹を立ててテレビをケトばし、ヤケ酒で二日酔をし、胃がやられ、精神衛生上誠によろしくない。これが草野球であれば「それはヘッドスライディングじゃない、のしだ」(『糸井重里の萬流コピー塾』)で、楽しいウケになり、また、本気で腹が立った場合には、直接本人をケトばせるのである。草落語しかり、草パーソナリティしかり。本人は結構一生懸命やっているのだが、鍛えあげの本芸を堪能したい向きには、ニガニガしい限りであるに違いない。  ヤジ馬的一般人よ、いつまでもいい気になって笑っていると、草弁護士、草パイロットなどというのが出現するぞ。 [#改ページ]   美容健康書ブームってなに?  出版界も何やら美容健康ブーム。僕たちは少しヒヤかし気味に、「どんどんモノ」とか「ぐんぐんモノ」と呼んでいるのだが、ともかくその本一冊を読んで中味を実践すれば、見る見る健康美が約束される、といったセンスの本がはんらんしているのだ。  ここに登場するのは、そうした一冊、「あなたの精力も必ず強くなる」という本である。舞台は、お茶の水界隈の某書店と思って頂きたい。カウンターの前には、いかにも精力の弱そうな、四〇がらみの痩身の男が立って何かを尋ねている様子。カウンターの中で声を張り上げているのは、この書店の主任格とおぼしき若い男、といった場面を想定頂きたいのである(傍点部分は特に声が大きくなるのだ)。 「はいはい、先日『あなたの精力も必ず強くなる[#「あなたの精力も必ず強くなる」に傍点]』を御注文のお客様でございますね。先日御注文の『あなたの精力も必ず強くなる[#「あなたの精力も必ず強くなる」に傍点]』は現在品切れでございます。御注文の『あなたの精力も必ず強くなる[#「あなたの精力も必ず強くなる」に傍点]』は来週中には入荷の予定ですので、入荷次第連絡をさせて頂きます。御住所とお名前[#「お名前」に傍点]をお教え頂けますでしょうか」  普通、品切れの本を注文して書店にくるまでには二週間はかかるのだが、このお客はそれを待ちきれない事情(?)でもあるのか、余りしつこく注文をしたもので、この主任格の男を怒らせてしまったのであろう。こう何度も大声でこのようなあからさまな書名を繰り返されてはたまらない。店内の客は皆吹き出したいのをこらえながらカウンターの方に注目。  件《くだん》のいかにも精力不足そうな客は身の置きどころのない風情で、隣で真赤になって笑いをこらえている客に、「あの、私はあの、注文頼まれただけなんです。あの本当なんです」などと、口ごもりつつ無意味な弁解。いやはや、本を注文するのも命がけ。この本が入荷した時のカウンターでの受け渡しのシーンはさぞ見モノでしょうねえ。 [#改ページ]   事件その六[#「事件その六」はゴシック体]  やっぱり弁護士  激怒篇[#「激怒篇」はゴシック体] [#改ページ]   一〇〇円玉電話機のネコババ金を返せ  NTTの株が一〇月末に売り出された。一株一一九万七〇〇〇円だそうだが、二兆三〇〇〇億円もの売却収入が一体どこに行くものかと眺めていたら、これは国債の償還をするための、国債整理基金特別会計というところに全部ブチ込まれて、一般財源には回らないことになるそうである。ま、いいでしょう。  しかし、一体全体アノ問題はどうしてくれるのかネ!? というのが、僕のこのたびの問題提起である。  アノ問題というのは、僕が、'86年春の民営化以来、TVでも、ラジオでも、雑誌でも、単行本でも、しつこく、シツコクとりあげてきた、一〇〇円玉公衆電話はなぜオツリを出さんのかィ、という例のアノ問題である。  わが国の一〇〇円玉公衆電話は、読者諸賢も御承知のように、設置以来一五年間余りにわたって、オツリのネコババを続けてきている。その額は、かなり少なく見積っても、総額数千億円に達するものと思われる。こんなデタラメが白昼堂々、天下の街頭でまかり通っているのは、全く不思議としかいうほかない。  NTTの前身、電電公社側の当初のいい訳は「オツリを払い戻すのは技術的に困難」とか「オツリの補充のために人件費がかかる」などという、いいかげんなものであった。余分に取ったお金を返すのに技術や費用をおしむなんぞは、いい訳にもならない。  そこで最近では、「カード電話機を増やしますから、一〇円玉が足りないときには一〇〇円玉を使わず、こちらの方を利用して下さい」などといい方を変えてきている。しかし、五〇〇円も一〇〇〇円もするカードを買わなければ、オチオチ電話もかけられないなどというバカな理屈を世間様が認めてくれると思ったら大アマ[#「大アマ」に傍点]である。  現に、拙著「キムラ弁護士がウサギ跳び」(情報センター出版局)で僕が「オツリを出せィ」とせまって以来、僕のもとには賛同の意見がドシドシ寄せられてきている。中でも名古屋に住む会社員Sさんなどは、御本人も一〇年以上前から、何度も何度も公社やNTTに足をはこび、改善を求めてきたが、応対に出た係の者は、「善処致します」とか「検討致します」というばかりで、一向にラチがあかなかった、と、僕の事務所に来られ、ギンギンギカギカに怒っておられた。そーか、NTT側は、そんなに長い間、正当な訴えをシカトしてきたのか、今後は一緒に闘いましょう、と二人はシッカリ手を取りあったのである。  そうこうするうちに、こんな日本経済新聞の記事が目にとまった。 �ソニーは、昭和三八年から四三年まで、ラジオ、テープレコーダーなどのカタログに「トランジスタは永久保証」と表示していたのに、修理の際、トランジスタ(無料)の交換技術料として一〇〇〇円前後を請求してきたが、大阪市に住むTさんから、「永久保証[#「永久保証」に傍点]といいながら、修理代を取るのはおかしい」と指摘されていた。ソニーはTさんの主張を認め、一般消費者から受けとっていた修理代を社会に還元することを検討した結果、このたび、約一〇億円を福祉、文化振興のために寄附することを決めた�(要約筆者)というものである。  えらい! ソニーえらいゾ! NTTの姿勢とはまるで逆である。NTTは僕の「今までのネコババ分はともかく、これからはちゃんとオツリの出る機械にしなさいよ」という極めてささやかな要求をも全く無視してきた。  NTTは、ソニーに較べれば、はるかに公共性の高い企業である。そのNTTが、一五年間も続けてきたネコババの責任をほっかむりしていてよいはずがない。ここに僕は断固として、新たに二つのことを提言申し上げたい。  1、NTTは直ちに社内に、�一〇〇円電話ネコババ金社会還元対策特別委員会�を設置し、年間数百億円を超えると推計される不当利得金額の確定を急ぐとともに、その社会還元の方途を真剣に検討しなさい。  2、一株一二〇万円近くもするNTT株を買った株主の皆さんにも、お金儲けばかり考えず、NTTがきちんと一〇〇円電話の不当利得のケリをつけ、その社会的責任をはたすよう、動向を厳しく監視していただきたい。  もし、この問題を次のNTT株主総会までにすっきりさせないときは、僕も株を手に入れて、総会に乗り込むかもしれんからね。腹をすえて真剣に考えないと本当にひどいよ。 [#改ページ]   不快な改札よ、きしめん券だぞ  まずもって問題なのは、改札口における駅職員の態度である。特に、ウッカリ乗り越しのまま改札を通り過ぎてしまい「〇〇のお客さん」と、例の陰険な声で呼び止められたときほど滅入ってしまうことはない。  人というものは、必ずしも乗車券の発売駅に住んでいると限ったものではないのに勝手に「北千住のお客さん」とか「西馬込のお客さん」などにされてしまう。しかもその時の係員の声の音質、物腰、目つき、等を総合すると、そこには「トボけるんじゃねエ、俺の目はごまかせないんだぜ、オイ」という猜疑心のかたまり的雰囲気が横溢しているのである。さらに付言すれば、改札係のこのクチは、この乗り越し犯人逮捕(?)という有事の際に使われる為のものであるからして、みだりに乗客が発車ホームや発車時刻等を尋ねたりした場合には、無言で案内板を、指又はアゴで示すにとどまることも多いのである。  これに較べて、車掌さんの方はどうかというと、こちらは打って変わってネアカな方が多いのか、車内アナウンスは何とも懇切丁寧で、時には満員の車内で思わずふき出しそうになる軽妙なアナウンスに出会ったりする。更には、独特の抑揚で降車駅・乗り換え駅の丁寧な案内につづいて、今日の天候に関連する忘れ物の注意やら、荷物の置き方、混んだ車内での座り方・立ち方、降車してからの歩き方に至るまでしゃべり続け、陶然としているようにさえ思える。  一体全体、この改札係と車掌との間の、かくも大きな落差は何に由来するのであろうか。  このナゾを解くカギは、実はあの車掌の持つ片手マイクにある、と僕はひそかに考えているのだ。  考えても頂きたい。酒場のうす暗がりで辺りを上目づかいに窺い、上司同僚の陰口をつぶやきながら次第にすさんでいった中年男性の胸に、あのカラオケ用片手マイクがどれ程優しい心を呼びもどしてきたことか。どれ程、明るく、人生を歩むことの尊さを教えてきたことか。  かくして僕はここに、すべての改札係に片手マイクを持たせることを提言したいのである。  たまたま乗り越し客を見つけた改札係は、マイクを使えるうれしさに目をうるませ、少しシナを作りながら、「ただいま、〇〇駅発売切符でお乗り越しのお客様。三〇円の料金が不足しております。お急ぎのところ誠に恐れ入りますが、お早目にお近くの精算窓口にお越し下さい」と、きっと優しく呼びかけてくれるに違いないのである。  話は突然変わるが、最近仕事で月一度名古屋へ行くことになった。ラジオ番組で兵藤ゆきさんと掛け合いで即興の世相話をする、というなかなか楽しい仕事だ。  さて、名古屋となれば、�きしめん�である。  名古屋できしめんの一番|美味《うま》い店はどこか、と地元の人に問えば、たちまち五つや六つの老舗の名があがるだろう。勿論、そうした本家、家元の類のきしめんも美味いに違いない。しかし僕は時間に追われながら名古屋の新幹線ホームですすり込む、立喰いきしめんこそ最高の味とあえて申し上げたいのである。 「まもなく、〇番線にひかり××号東京行が到着致します」というアナウンスが鳴っているなか、カウンターのむこうでおばチャンが、ゆであがったきしめんにオツユをはり、薬味をガバとのせてくれるのももどかしくどんぶりをうけとる。このどんぶりの中では、かつおぶしの一群が、きしめんから立ちのぼる湯気に、もだえるがごとく身をよじらせている。こいつを嗜虐的《サデイステイツク》に一瞥するや、「てめー、このやろ、なめんなよ」などと訳の解らぬことをつぶやきつつ、そしてひかり号がホームにすべり込んで来たことを背中に覚《さと》ってかなりあせりつつ、そのうえさらに口の中をヤケドしないよう細心の注意をほどこしつつ、最後のオツユの一滴までしっかりと飲みほす。そして一瞬、身をひるがえして車中の人となり、時速二〇〇キロで彼方へと去って行くのである。  まあ、こうした危機一髪アクションノベル的賞味法の良し悪しはともかく、実際にこの新幹線ホームのきしめんの評判は上々で、わざわざ入場券を買ってホームのきしめんを食べに行くという地元きしめんマニアもかなりの数にのぼる、と、熱狂的ファンの一人である兵藤ゆきさんはいうのである。  そうだとするならば、評判の美味いきしめんを食べたいという一心で改札を通ってくる客に対してまで入場券を購入させ、平然としている国鉄の傲慢な態度には、問題がありはしないか、と僕は思う。  ここまで新幹線ホームのきしめんファンが多いのであれば、サービスをモットーとする国鉄としては、入場券の券売機の隣に、きしめん券の券売機を設置し、立喰いきしめんのみを目的とするお客様は、このきしめん券だけで入場出来るように配慮すべきではないだろうか。僕は本稿第二段として国鉄当局に、こう提言したいのである。  もっとも、こうした場合、中にはそそっかしい乗客もいて、うっかりこのきしめん券でもって乗り越しをしてしまう、というような事態が発生するやもしれない。  その場合、彼《か》の改札係はいかなる反応を示すであろう。おそらく「んーと、あのー、そこの、ん、えーと、あのきしめん[#「きしめん」に傍点]のお客さあーん」などと大いにあわてて叫ぶのであろうか。 [#改ページ]   プライバシーが尊重されない時代  最近、写真週刊誌によるプライバシー侵害事件と、これにまつわる芸能人と編集者、カメラマンなどとのトラブルが続発し、社会の関心を集めている。  僕の周辺の作家や芸能関係者にも、同じような取材に関連する被害が出はじめ、黙って見ているわけにはいかなくなってきた。  仲間の弁護士たちと、作家、芸能人、スポーツ選手など約一〇〇〇人を対象にアンケートをとってみたところ、多くの人びとが、盗み撮りや張り込みなどの、違法な取材によるプライバシー侵害にあっていることがわかってきた。  しかし、一般人とはちがって、�有名人にはプライバシーなどありえない�とか、�芸能人はプライバシーを売って商売にしているのだからしかたがない�などの議論も、まだまだけっこう幅をきかせているようである。  写真週刊誌の編集者は、「有名芸能人は権力者である。そのスキャンダルを暴露することは、権力者の実態を明らかにすることで、言論の自由の本来の使命である」などと開きなおっている。  一人の芸能人にくらべれば、組織力をもち、マスメディアをにぎっている編集者の方が、よほど権力者に近いように僕にはみえる。ペンの力を自覚するならば、有名ではあっても、切れば血の出る生身《なまみ》の人間にすぎない芸能人にたいして、もっと思いやる心があってよいのではないか、と僕には思える。  あるワイド番組の女性キャスターのSさんが、スキャンダル報道ばかりを売りものにする番組のあり方を批判して、番組を降りてしまった。そのしばらく後に、その女史の、全裸の写真が某写真週刊誌に大だい的に掲載された。Sさんが、デビュー時代に恋人に撮らせた、まったく私的な写真であり、Sさんの掲載拒否を無視した報道であった。  そのさい、この写真の掲載を断行した編集者は、あるところで「番組批判などしてお高くとまっているこの女の素顔をひっぺがしてやった」とのべている。このどこに�権力批判�があるのだろうか。  自分の出演番組を批判する、というのは、放送局側にたいして弱い立場にあるタレントとしては、かなり勇気のいる行動である。いわば�権力�にたいするささやかな抵抗とでもいうべきものだ。  この編集者の報道姿勢には、そうした抵抗者を、みせしめ的にイジメる、というスタンス(立場)以外になにものもみえない。  戦前の特高警察が権力をほしいままにしていた時代には、スパイ捜査を口実に、特高が作家や著名人のプライバシーをかぎまわっていた。政治のあり方に批判的な言動があると、その人の女性関係などをネタに、転向を求めた例も多いと聞く。  プライバシーの尊重されない時代は、暗い時代である。思いやりのない社会、一人ひとりが大切にされない社会である。  そうはいっても、芸能人のスキャンダル記事や、いわゆる不倫の�決定的瞬間�の写真などは、やはりおもしろい。のぞき見たい。  しかし、それが同時に、取材された人びとの生活や心を、どんなに深く傷つけているか。ここを思いやる心が、いま、とても大切だと思う。 [#改ページ]   スポーツマスコミよ、いいかげんにせよ  ちょっと古いかもしれないが、例の東尾選手の話である。件《くだん》のマージャンとばくで�謹慎中�の東尾は、集団自主トレ組と離れて、一二日間沖縄万座ビーチで�孤独の自主トレ�をし、二月四日から高知県春野の二軍キャンプ入りをしたとのことだ。  毎月一度や二度は、多少のポケットマネーを賭けて、近所の知り合いの皆様方とマージャンに興じているぼくとしても、東尾のマージャンとばくはよろしくないと思っている。東尾が一緒にマージャンをやっていたメンバーというのは、プロのとばく師、ようするに博徒、はっきりいってやくざ関係の皆様である。当然、野球とばくの関係者も出入りしていたでありましょう。東尾は、そんなこと知らなかったと言っているそうだが、ギャンブルというのは、先読みのゲーム。そんなことがわからなくて、バクチは打てません。打者の読みをはずす絶妙のピッチングもできません。セミプロ級の雀士といわれる東尾は、そのくらいのことは承知のうえで問題のマンションに通っていたに違いない、とぼくは確信しておるのです。  したがって、罰金ごもっとも、六月二一日までの公式戦出場停止これもごもっとも、とこう思っているわけであるが、わかんないのがこの孤独の自主トレ、というやつである。謹慎中なので�孤独�でなければならない、というわけなのでありましょう。金田一京助先生編纂の「辞海」によれば、謹慎とは「㈰つつしみかしこむこと ㈪江戸時代の刑名。士分以上に科し、一定の住所を定め、公用の外には外出を許さぬもの ㈫学生、生徒がその本分に違反した行為をなした時等に行なう処罰の一。一定期間出校を止めて謹慎の意を表させる。放校、停学に次ぐ」などとある。東尾の場合は、この㈫にちかい。  チームワークが大切なスポーツである野球選手に、こんな処分をすることが本当に適当なのか、罰金と公式戦出場停止だけで十分なのではないか、という疑問も湧いてくる。しかしマージャンとばくで世間の寒風にさらされたひとりの男が、心身ともにリフレッシュして再出発するためには、そんなことも必要な儀式なのかもしれない。ま、一応わかってあげよう。  問題は取材陣である。謹慎というのは、しばらく本人をひとりにしておいて、じっくり反省させてあげようではないの、ということが本分のはずだ。ところがだよ、昨年末、あれだけ連日のように東尾糾弾キャンペーンに明け暮れ、結局球団としてもマスコミに押されたかっこうで重い処分を発表、という流れを作ったそのスポーツマスコミがだよ、今度は謹慎中の東尾を追っかけて、今日はどこを何キロ走ったの、やれ「謹慎中だからゴルフがやれない」と言ったの、今日は国頭《くにがみ》郡|恩納《おんな》ビーチホテルにチェックインしたの……うるさいっつうの。これこそ五月蝿《うるさい》! と書くのかね。  東尾は、「これまで重苦しい気分だったから、明るい沖縄を選んだ」と言っているそうだが、少しでも本拠地の所沢を離れて孤独を味わいたい、というのがホンネのように思う。それを、大勢の取材陣を送り込んで、練習中の�謹慎者�を追いまわし、バチバチバチバチ写真は撮るわ、のべつまくなしインタビューはするわ、これじゃちっとも孤独になれないじゃないの。ちっともつつしみかしこめ[#「つつしみかしこめ」に傍点]ないじゃないの。そのうえ二軍に合流のため高知に来てみれば、地元局の突撃カメラマンがアップを狙って、五〇センチの至近距離で追っかけ回したという。えーかげんにしなさいよ、ホントに。おこるよ。 [#改ページ]   テレビ局ダラ幹の決めたこと  めずらしくゆったり座れた京王線の座席で、のォんびりとスポニチを広げていたら、中ほどのページに、「女湯盗撮」という、デカい見出しが目に入った。  そもそも、スポーツ新聞というものは、ちょこっと目玉をうごかせば、どこにでもハダカの写真が跳び込んでくるようにできているのだから、ぼくとて、この程度の見出しで驚くものではない。そのうえ今日は、通勤電車で座らせていただいているので、おのずから、世の中の出来事すべてにおおらかな気持ちになっているのだ。よォーし、よし。女湯盗撮ネ。スポニチ主催で「女湯盗撮アナ場全国ツアー」かなんかやろうってわけなのね、フンフン。などと、納得しかかってしまったのも、以上のような状況下においては、ごく自然の成り行きだったのである。  ところが、この記事は、女湯をビデオで隠し撮りしていたテレビディレクターが、警察に突き出され、住居侵入罪で略式起訴となり、二日後に罰金一万円払って釈放されたということを報じていたのである。事件そのものは、まことにチンケな事件で、元来は天下のスポニチが紙面の約半分をさいて大騒ぎするほどのものではない。ようするに、あのあぶないテレビディレクターが、たまたま「あぶない刑事《デカ》」などのテレビ番組もときどきプロデュースしていて、業界ではチョット名の売れた方であった、というところで世の注目を浴びてしまったというわけである。  この記事自体はじつにタワイのないものなのだが、ふざけているのは、この事件発覚後の各テレビ局の反応である。「一流の売れっこディレクターがハレンチなビデオ撮りをしていたことで、関係者はショックを受けている」という記事の結びのあとに、各社の対応ぶりが載っているのだが、各局大あわてでこのディレクターの手がけた作品の放映を延期し、別の作品に急遽《きゆうきよ》差し替えるなど大変な騒ぎになっている、というのである。なんとアホなテレビ局なのでありましょう。  ヒッチコックのように、このディレクターが自らそのテレビ番組に出演していたり、盗み撮りしたビデオが番組中の入浴シーンに一部使用されていた、というなら、少し騒いでもよろしい。しかし、この事件は作品の中身にはなにも関係ないのである。どんな重罪人の作った作品であろうと、作品そのものの中身に天下に恥じるものがなければ、大いに放映なさればよろしいではないですか。  大あわてをしたテレビ業界のエライお方に話をきけば、きっと「エーこれは、テレビ放送の公共性ということを考慮しましたエー自主規制措置でありまして、エー、ながなが、くどくど、ぐちぐち」などというお答えが返ってくるに違いない。だが、テレビの公共性がどうあろうと、視聴者にとっては、番組を作ったディレクターがなにをしたか、ナンテことはチャンネル選択の上でなんの関係もないのだ。こんなことは、自主規制でも何でもない。単なる、放送局幹部の事なかれ主義の表われにすぎないのだ。  ぼくは、別にこのディレクターのファンでも「あぶない刑事」のファンでもない。にもかかわらず、今回の番組差し替えにトコトン怒りこだわってしまったのは、こうした事なかれ主義がマスコミのなかにまんえんしてしまうことが、ロクな結果をもたらさないと信ずるからである。日本テレビは、直ちに問題のディレクターの作った「あぶない刑事」を放映しなさい! しなさいったらしなさい! [#改ページ]   コンビニエンス電車を走らせなさい!  昨晩のことである。例によってぼくの帰宅は、一二時をだいぶまわっていたが、玄関前でタクシーを降りると、なんとこの夜中に、わが女房殿は外出しようと車に乗り込むところだった。  さて、その日のぼくはといえば、川崎の裁判所から戻ると依頼者が目白押しに待っていたところへ、緊急の駆け込み相談が二件も入ってしまい、昼飯を食いそこねたまま駆けつけたにもかかわらず、七時からの会合には約一時間の遅刻で、列席の皆様から冷たい視線を浴びせられた。そのうえ、会合が終わるのを待っていた相談者までいたのだ。ぼくは一生懸命にお仕事をしてきたのだ。すごーく疲れているのだ。  女房殿は玄関を開けてくれたものの、モゴモゴ言いながらそのままおでかけになってしまった。あれは一体何かいネ、とぼくがボーゼンと着替えもせずに椅子に座り込んでいると、ものの一五分と経たぬうちに、女房殿は米袋などを抱えて帰ってきた。  ♪セブン−イレブン・開いててよかった  朝のごはんが間にあったぁー♪  ウーン。そーゆーことであったのか。それは大変によかったねェ。これで明日の朝食に、ホコホコのごはんが食べられるシアワセというものが、しっかり確保されたのであるねェ。  これもみーんな、終夜営業をしているコンビニエンス様のおかげ様。考えてみればお天道様の明かりにたよっていた昔と違い、電灯というありがたいものがあり、寿命が延びたといっても、人生に限りがある以上、もう少し、人類は深夜というものを有効に活用するのが利口というものである。ところが、あらためてチェックしてみると、この世の中、深夜の人間行動というものに対して、そうそう甘くはないのである。  歌舞伎町あたりでカラオケで盛り上がりすぎ、終電に乗り遅れてしまったら最後、盛り場ではなかなかタクシーはつかまらず、駅のタクシー乗り場ではすでに長蛇の列。まず、一時間は覚悟しなければならない。うまく終電に間に合ったとしても、降りた駅にはもちろんバスの姿はない。ここでも、タップリ三〇分から一時間はタクシーの順番を待たなければならない。えーいママよ、と夜道をトボトボ足取りゆらめきつつ家路に向かうと、「チョッとチョッと」などと、いかついお巡りさんの不審尋問にあってしまったり——というようなことを読者諸氏もよく経験するのではあるまいか。  これは何が悪いのかといえば、まず第一に鉄道会社がよろしくないのである。鉄道会社が二四時間営業態勢を敷き、深夜といえども、少なくとも一時間に一本くらいは電車を走らせておれば、問題の半分は解決する。当然、深夜割り増し料金は覚悟のうえで申し上げておる。コンビニエンス電車! すぐにおやんなさい。これによって、深夜行動族は、何時まで飲んでいても歌っていても、ともかく自宅最寄り駅まではたどり着くことが可能となるわけである。  さて次は、最寄り駅からの足の確保であるが、ここでタクシー会社に英断を望みたい。深夜の車待ちの列がエンエン続いているのに、一人ずつ乗せていたのでは、深夜サービスとして最低である。運輸省と掛け合い、直ちに深夜運行バスの許可を取り、コンビニエンス電車の到着に合わせて、コンビニエンスバスを走らせなさい。当然、これも相当の割り増し運賃でよろしい。年末の忘年会シーズンを迎え、事態は緊急の度を強めつつあることを最後に強調しておく。 [#改ページ]   結婚は車検なみにすべきだ  離婚が急増しているような気がする。  なぜかといえば、やたらとぼくの事務所に持ち込まれる離婚事件が多くなっているからだ。どこがどうしてこうなってしまったのかはよくわからないのだが、ぼくの事務所にばかり離婚事件が集中する理由もないので、世間様のほうに、なにかしら離婚が増える原因が大量発生しているに違いない。  ところで、こういう離婚事件の常なのだが、どちらに離婚の原因があるのかは別にして、どうにも修復不能の夫婦のミゾができてしまっていて、元のサヤにおさめるのは到底無理というケースばかりである。それにもかかわらず、かなりのケースでは、一方が離婚を請求しているのに、他方は離婚を認めない、という形の争いになってしまう。  じゃあ、離婚に反対しているほうの当事者は、心から共同生活の復活を望んでいるかというとそういうわけではない。復讐心の入り混じった反発であったり、少しでも離婚の条件を有利にしようという打算であったりするわけである。それが悪いというわけではないが、一方が反対さえすれば法律上離婚がなかなか認められない、ということが復讐や打算のための強力な武器となってしまうことには、おおいに問題があるように思う。  最大の問題は、日本の裁判所が有責配偶者、すなわち、離婚の原因を作った側からの離婚請求をほとんど認めようとしなかった点だ。夫婦の関係は、愛情と信頼によって維持されねばならないのに、それをなくしてしまった夫婦が、法律上永久に夫婦たることを強制されるというのは、いかにも理不尽である。  最近、「妻」と別居し、愛人と同棲していた男性からの離婚請求が認められ、注目を集めている。ちかぢか、最高裁でも同様の判決が出るのではないか、と予測されている。大いに結構なことである。しかし、これらのケースは、いずれも別居後二〇年とか三〇年というものである。まだまだ狭き門といわねばならない。  もっと離婚は自由であってよいとぼくは思う。どちらに責任があろうと、一方に愛情がなくなり、夫婦であることを真剣に拒否したいという気持ちがある以上、法律でこうした「気持ち」に反する行動を強制するのは、無意味というほかあるまい。それでは男の身勝手を許すことになる、というかもしれないが、そんな身勝手な奴とかたちばかりの結婚生活を続けることに、法律上の「妻」にどんなメリットがあるというのだろう。  大切なことは、離婚を認めないことではなく、離婚後の妻や子どもに対する経済的保証や、裏切りに対する慰謝料の支払い、結婚中の妻の努力に対する補償をどう確保していくか、ということにあるのだ。裁判所の調停で離婚したのに、別れた夫が離婚の条件である養育費や慰謝料を支払わない、というケースはきわめて多いのである。  ぼくの意見では、こうした経済的保障などの強化を条件に、離婚は原則として自由とすべきである。もし、そこまでいっぺんにいってしまうことに不安があるのであれば、結婚というものは車の車検なみに、二〜三年で更新することにすべきである。もっとも、そうなると、更新のときに女房から多額の更新料を請求されて、面くらう亭主どもがでてくるかもしれないが……。 [#改ページ]   法廷でナマの裁判のお勉強  ×月×日、豊島区役所から頼まれた「生活の中の法律知識」という講演をすませて事務所に戻ってくると、事務員瀬尾民代が「△△市の消費者相談員の方から、法廷見学をしたいので、手配をしてもらえないか、といってきているんですけど……」と、少し怪訝そうな顔でいうのである。事務員にしてみれば、『法廷なら誰でも自由に入れるんだから、勝手にドンドン行っちゃえばいいのに何を訳の解らないことを言っているのか』という思いなのだろう。  たしかに、わが国の憲法は、裁判の公開を保障しているので、誰でも自由に法廷に入り、自由に裁判を傍聴できることとなっている。勿論入場無料である。特に弁護士の紹介が必要なわけではない。  しかし、こういう電話依頼が来るというところをみても、なかなか一般のヒトはそうは思っていないようなのである。テレビの裁判ドラマなどで時々映し出される法廷場面の、あの厳然たる雰囲気からして、あそこに入るためには相当難しい関門が幾重にもあるに違いない、たとえ、その難関をうまくスリ抜けることができたとしても、何の関係もない他人様の事件の法廷にノコノコ入って行こうものなら、�無断法廷侵入罪�とかいう罪名で直ちにその場で逮捕されてしまうのではなかろうか、などと考えているのかもしれない。  あの、世界の果てシベリアの奥地へまで突入してしまうわが友、椎名誠にしてからが、初めて八丈島簡易裁判所において僕の担当する裁判を傍聴した時には、「あれれ、こんなに簡単に入れちゃうのかよ」とびっくりしていたくらいなのである。  裁判の傍聴について一般にこんな誤解を生み出すもとになっているのは、テレビの裁判報道である。テレビには『傍聴券』をもらうために徹夜で並んでいる人々の長い列がきまって映し出される。これが、見ている人に「法廷に入るには、あの傍聴券というものを手に入れなければならないはずだ」という観念を植えつけてしまうのだ。  ところが、あんな風に傍聴券を発行しているのは、特に世間を賑わしている、いわば一部のメジャー系裁判にすぎないのであって、九九・九パーセントにあたる人気のないマイナー系の裁判は誰ひとり傍聴人のないまま、ひっそりとした法廷で寂々と行われているのである。平等をモットーとすべき法の世界においてこのあまりといえばあまりの落差に僕はフンマンやるかたない思いを禁じ得ないでいるのだ。  そこで僕はこの際、読者の皆さんに、マイナー裁判傍聴を声を大にしてお勧めしたい、と思うのである。まず初心者コースとして手初めに、あなたの町の簡易裁判所の法廷傍聴からいってみよう。傍聴にあたっては、次のような点に気を付けてもらいたい。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ㈰ あらかじめ開廷日と開廷時間を確かめてから行くこと。地方の簡易裁判所などでは、事件がなく開廷していない日もある。 ㈪ 団体で行く場合であっても引率用の旗竿等はふり回さないこと。テープレコーダーの持ち込みも出来ない。弁当・缶ビール等をリュックに入れていっても飲み食いするところはないよ。念のため——。 ㈫ 簡易裁判所では、九〇万円以下の民事裁判と、罰金刑となる刑事裁判(ただし、窃盗、横領罪などは禁錮、懲役となるものも含む)が行われている。どの法廷にどんな事件がかかっているかは、法廷の入口近くにある掲示板で判断すること。なお、簡易裁判所ではこの他に、調停事件もやっているが、これは傍聴がきかない。やたらに調停室などを覗き込んだりしないこと。 ㈬ 法廷に入る時は後ろの入口から静かに入る。気取ってノックしたり、「流行通信から聞いてきました」などと挨拶する必要はない。また、トイレに行く時に、いちいち断ったり、解らないことがあるからといって、手を挙げて質問したりしないこと、疑問の点はあとで読者カードに書いて、本誌宛に送りなさい。 ㈭ 法廷内では行儀良くし、新聞を読んだり、ウォークマンを聴きながら傍聴したり、いびきをかいたりしない。 ㈮ 裁判所の中で不審者と間違えられて用件などを質問された時は、「見学のための傍聴です」と静かに笑って答えること。 [#ここで字下げ終わり]  以上の注意を守って気の向いた事件を見てもらえば良いのだが、僕としては民事裁判の方をお勧めしたいと思っている。簡易裁判所の民事事件は、比較的少額の事件なので、弁護士がついていないものが多く、そこに庶民的な生活の味が出て興味深いからだ。特に、都会の簡易裁判所では、大部分がサラ金と信販会社の債券取立て事件になっている。  これからサラ金のお世話になろうかという人や、サラ金でも始めて少し儲けてやろうか、などと考えている人は必修課目としてこの種の傍聴をお勧めしたい。またこの他、選択課目としても各種いろいろ事案は揃っているので学習意欲のあるむきは、自分でカリキュラムを作って貪欲に頑張ってみよう。 [#改ページ]   伊勢エビと鯨  八丈島から伊勢エビが届いた。本誌(「本の雑誌」)編集長ら四人で出資して購入した第一東けと丸で、八丈島のヘミングウェイこと山下浄文船長が漁って送ってくれたものだ。数十センチの大物ばかりで、僕に配当になったものだけで六匹、もちろん、ピンピン生きているヤツである。とてもわが家だけでは食べ切れるものではないので御近所にもお分けし、漫画家の高信太郎さんのお宅に一匹お届けした。高信さんには、僕の本のイラストをお願いしたり、いつも何かとお世話になっている。  高家におかれては、特に小学生の娘さんがこのエビを見て、大層お喜びになったそうであるが、ここに一つの難問が生じた。即ち、娘さんは、この伊勢エビに食糧としての興味を持つ以上に、深い愛を感じてしまわれたのである。ダンボールの中で、ガサゴソと動いているこの大エビを一目見たときから、少女とエビとは、同じ美しい地球に生きる者どうしとしての、熱い友情のきずなで結ばれてしまったのである。さァ大変。高信さんといえば、美味しいものにはメがない方である。せっかく普段食べつけない(失礼)伊勢エビが来たのだから、直ちに本体は刺身につくり、頭のところは赤ミソなんかで吸い物に、と思ったのだが、娘さんがガンとしてこれに反対。ま、とれたてのエビだから、この寒気なら何日かは生きているはずだということで、そのうちあきるだろうと二、三日放っておいたのが、かえって悪く、その間少女は、このエビにキューリをやったりして、ますますその友情は深まるばかり。ダンボールでは可哀相だからと、お風呂に塩水を入れて飼おうとするまでに事態はエスカレートしてしまった。思い余った高信さんは、窮余娘さんが学校に行っている間に浴漕から伊勢エビを略奪、台所に無理矢理連れ込むと、隠し持っていたデバ包丁で十数カ所を切りつけ虐殺。かくして、やっと伊勢エビは食糧としての本来の姿を食卓上にさらしたのである。  学校から帰って、無残なこの姿を見た娘さんは、「お父さんのバカ」を連発して号泣。しかしそれでも最後は「でもね、できるだけ苦しまないように、びっくりさせて気を失わせてからお料理したのよ。せっかくだからお食べ。その方がエビさんも喜ぶわよ」という母親の執ような説得に折れて刺身を一口ついばみ、泣きながら「でもおいしい」と一言つぶやかれたそうであります。可愛いでしょこの話。(なおこの話は最近実際に起こった事件をもとに脚色構成したもので、登場する人物、団体(はなかったかな)名などは本物です)  かくして高家の未来は前途遼遠なわけであるが、しかしそれはそれとして、この話には人間と他の生物との共存のあり方を考えるうえで、極めて示唆的なものを感じるのである(そうでもないかなあ)。この件があって、僕が最初に頭にうかべたのは、例の捕鯨禁止問題。御承知のとおり、海外の捕鯨反対運動の圧力をくらって、わが国でも、あの美味しい鯨肉が食べられなくなってしまった。このまま捕鯨を続けると、鯨が絶滅してしまう、とかいう反対運動の根拠は最近の調査によっても極めて非科学的なもので、結局ホンネは「鯨がかわいそう」という程度のものでしかない。  そんなことを言い出したら、牛やブタはもちろん魚介類まで食べられなくなってしまう。人間が理性的存在であるという説(これもかなりあやしいが)を信ずるとしても、人間も肉を食う動物である以上、食糧として他の生物を生け獲り、むさぼっていかなければ己の生が保てないことはわかり切っている。僕などは、子供のころから鯨肉が大好物で、一〇歳の誕生日に親から「何でも食べたいものを食べさせるから、言ってごらん」といわれて、直ちに「クジラのベーコン」と叫んでしまったくらいだから、鯨肉が食べられなくなるのは本当に悲しい。  だが、しかしだ。鯨は知能も高いし、可愛い動物だ、として友情を感じてしまっている大勢の人がいる以上、この人々の感情というものも無視するにしのびない。同じ動物であっても、家畜に属するものを虐待すると、三万円以下の罰金又は科料、という法律もある(動物の保護及び管理に関する法律一三条)。同じ法律には、罰則こそないが「動物を殺さなければならない場合には、できる限りその動物に苦痛を与えない方法によってしなければならない」という定めもある。要は、その動物を食糧としてのみ意識している人々と、同じ動物に友情を感じてしまう人々との間に何らかの調整原理を導入することが必要になる、ということだろう。その調整原理は、ギリギリのところ、「できる限り……苦痛を与えない方法」、これではあるまいか。一方に鯨を愛している人々がたくさんいるのに、捕鯨船団がズドーンと鯨さんにモリを撃ち込んで、ノタウチまわるヤツをググッとひきよせて……というような捕り方をしていたのが、やはりヤバかったのではあるまいか。それでは鯨愛護団体の反撥をまともにかってしまう。「できるだけ苦痛を与えないように」。そう、麻酔銃かなんかで一発やっておいて、ぐっすり眠ったところでサッと捕まえる、というぐらいの配慮が必要だったのである。  そのうち、動物愛護精神が高まってくると、牛豚愛護団体とか、シマアジ・ハマチ愛護団体とか、新手のものも出てくるかもしれない。その場合には、活魚料理で皿の上でピクピクしているヤツを喰らいつく、なんていう風流は御遠慮申し上げるしかない。うまいこと、麻酔注射でも打ってから料理するのだ。いずれ、ヘラブナ愛護団体、なんてのが出てきたら、もうつりも麻酔バリになるのだろう。でもやっぱり、やだねェそんなの。どうするの本当に。 [#改ページ]   事件その七[#「事件その七」はゴシック体]  ついついしゃべる  秘密篇[#「秘密篇」はゴシック体] [#改ページ]   新事務所でオオシク独立宣言  昨年一〇月に事務所を独立し、一年が経過してしまった。何とも早いものである。  当初の二、三カ月は、初めて自分の城を持った喜びの余り、外出中に何度も事務所に電話を入れ、女事務員の瀬尾民代をヘキエキさせた僕の狂乱怒とうも、最近は平常心にたち戻っている。しかし、それにしても多忙な一年だった。常時八〇件近い事件をかかえながら、この一年間に五四本の講演と一五本の座談会をこなし、一二本の論文と一九本のエッセイを書きなぐってきた。そして、概ね三三六リットルのビールと、一七〇リットルの水割りと、一二五リットルのチューハイとを胃袋に流し込み、延べ三七〇曲のカラオケを歌いまくり、三四枚のハズレ馬券をドブに破り棄ててきたのである。  この多忙の中で、いつもの年であれば一度や二度は風邪でダウンして寝込むこともあるのに、一日たりとも休むことがなかったのは、やはり独立一年目の気の張りなのだろうか。この週休二日全盛の世の中で、土曜日は勿論休みなし、日曜休日も半分も休んでいないのである。かくして、木村晋介法律事務所の一年は、かなり順調であったことをお伝えして、読者諸賢にはひとまず御安心願おうという次第である。  しかし、決して問題がなかったという訳ではない。最大の問題点は、このクソ忙しいさ中に、何と四キロも太ったということである。女事務員は、「よくあんなに不摂生をしながら太れますねェ」と多少は感心し、明らかに三分の二以上はバカにした目つきであきれるのであるが、今の僕にとっては、過労も不摂生も、さらには二日酔までもが、ことごとく栄養となってしまっているとしか思えないのである。  元来僕は、自身がそう風采のあがる男でないことについては常に自覚をさせられてきた。だいたい、体全体のバランスから見て、まず顔が大きすぎるのである。そのうえ、身長全体の中で座高の占める割合が大きすぎるのである。そのうえさらに、はっきりいってガニ股である。以上に列挙した身体的特徴は、もし僕が男性ファッション誌のモデルを目ざしていたとすれば、致命的欠陥となり兼ねないものばかりであるが、幸いにして、弁護士という職業をやっていく上では何の支障もないのであり、従ってこのことで親を恨んだりしたことは一度もないのである。ここまでのところはすべて許そうと思ってきたのである。しかし、このうえ、デブというハンディまで背負って生きていかねばならないということに関しては、今のところどうにも納得がいかないのである。考えて見れば僕の父親は、一六〇センチ足らずで八〇キロの短躯巨漢であった。昨年、事務所開設の日に墓参りし「万事よろしく」とお願いしたまま、寺にも行っていない。早々に墓参りをしておいた方が良いのかもしれない。  第二の問題点は、事務所開設一周年記念パーティが開けなかったことである。これは、現在、木村晋介の初エッセイ『キムラ弁護士が駈けてゆく』を執筆中であることによる。情報センターの星山局長に乗せられ、思いもかけず、半生記のような、椎名誠や沢野ひとしの青春哀話のような、弁護士のすすめのような、田中弁護団批判のような、怪しい本を出すことになった。今まで出した本はといえば、『サラ金トラブルうまい解決法』とか『うまい話に御用心』とか、ノウハウ書ばかりだったので、勝手の違いにとまどうばかりだが、椎名誠からは「オレはこれからオーストラリアに飛ぶが、絶対アノことは書くな、書いたらヒドイヨ」などという脅しの電話が入ったりして、結構センセーションを起こしつつあるのだ。  来春には、出版記念を兼ねて一周年ちょっとすぎ記念パーティをやります。その時には、グッとスリムになったA体でお会いできる見込みです。 [#改ページ]   森瑤子だからトバッチリ  日本中の人間が遊んでいる連休の中日、しかもその日は日本晴れだった。にもかかわらず僕は原稿用紙を前に呻吟《しんぎん》していた。それもこれもモリ・ヨーコのせいである。彼女の文庫本の解説を仰せつかったのだ。  唸《うな》っていても仕方がないから、電話を入れた。 「原稿書いてんのよ。邪魔しないでよね」 と地獄の底から聞こえてくるような声が返って来た。おっかねえ。だが僕も職業|柄《がら》押しは強い方なのである。 「こっちも原稿書いてんだ。しかもキミのこと書いてんだぞ」  相手が沈黙した。 「で、何の用?」声が少し柔らかくなっている。 「キミのこと書こうにもネタがない」 「やっぱり邪魔するんじゃないのさ」とモリ・ヨーコが溜息《ためいき》をついた。「しょうがないね。おいで」  それはないぜ。僕は人助けのつもりなんだぜ。この天気の良い連休の真昼間にイイ女が髪ふりみだして机に向っているなんて、不健康の極《きわ》みではないか。というわけで銘酒「雪中梅」をお土産に、カミさんをフロクに、彼女の家へと出かけて行ったわけである。  そもそも僕と彼女の結びの神は、大宅映子、大宅映子との出逢いがまた愉快で、「クロワッサン」かなにかの雑誌になんと彼女が僕をして片思いの男に指定してくれたのだ。おまけに公開ラヴレターつきである。  男としては、このまま放っておくわけには、絶対にいきません。しかるべく手続きを踏んで六本木でのデイトにまでこぎつけた。  今をときめく女性ジャーナリストと今宵二人で差しになり、静かに人生を語らい、酒を酌《く》み交《か》わすその幸せを僕はしみじみと味わおうとしていたのであった。と正にその時、ドンガラリと店の格子が引かれ、突然乱入して来たのが、モリ・ヨーコだったのである。何だ、何だ? とうろたえている僕を尻目《しりめ》にモリ・ヨーコは僕と大宅映子の間に割りこみ、勝手に手酌で飲《や》りだした。躰《からだ》の大きさに比して気の弱い大和ナデシコ映子があらかじめ用意していた助っ人だったのである。かくして四帖半《よじょうはん》的しっとりムードは夢と消え、僕は大女二人の間にはさまれる格好で(映子一七〇センチ。ヨーコ一六三センチ。共にハイヒールをはいているから、巨大人類である)、赤坂のピアノバーなどというところへ拉致《らち》される運命となったのである。  それがモリ・ヨーコとの歴史的初対面の嘘偽《うそいつわ》りのない真相である。今からちょうど一年ほど前のことだ。その時の彼女の第一印象はというと、ミクロネシアの酋長の娘(ちょっとばかり年食いすぎた娘だな)みたいに日に焼けて、ブルーのアイシャドウなどピカピカさせ、潮風に吹かれて来たような髪。ターザンの相手役ジェーンみたいにオタケビを上げながらどこからともなく突然に僕の人生の中に飛びこんで来てしまったのである。  以来、男同志[#「男同志」に傍点]的な友情のつきあいが快適に続いているが、このモリ・ヨーコ、どうも一筋縄《ひとすじなわ》ではいかない女。気まぐれ、わがまま、それにケタ外れの悪戯《いたずら》で、僕をむしりにむしるのだ。  ある夜、じろりと僕のネクタイをみて 「センス最悪だね」とのたもうた。  僕は傷つき、内心ウロタえ視線を伏せた。  そうやって僕をいじめておいて次の週、一ダースのネクタイを持って彼女が現れた。 「あたしをデパートのネクタイ売り場に走らせた男は、後にも先にもあなただけよ」  かと思うと別の夜、なぜか男の下着の話になった。彼女曰く「中年男の下着のダサさ加減は眼をおおうものがあるわ」 「僕は、清潔第一、いつも真白いブリーフでありますが」と断固として申し上げた。 「それが一番ヤボ!」 とニベもない返事。で僕は再びケションとうなだれた。  四日後に、僕の法律事務所にデパートから小包が届いた。たまたまワープロを打ちに来ていたカミさんが、それを開いた。出て来たのはなんと、真黒い超ビキニのブリーフ。横からはみだしそうな代物《しろもの》だ。これもまた一ダースである。  カミさんがジロリと僕の顔を見たものね。 「そ、それはジョ、ジョークだよ。ジョーク、ハハハ……」僕はシドロモドロ。恨んだね、モリ・ヨーコ。  バレンタインデーにはダンボール箱でどんとチョコレートが送られて来た。おかげで来年のバレンタインデーまでもちそうだ。  とにかくやることがオーバーで派手なのである。そして意地悪。どこかでイヒヒヒなんてほくそえんでいる顔が見えそうだ。何でこんなに僕をイタブルのかと思ったら、どうやら、それもこれも全て、原稿にいき詰ったときの彼女のイライラ解消法なのである。僕など理想的なイジメのターゲットなのに違いない。  さて連休の中日。モリ・ヨーコ宅に押しかけた。僕を待っているのはウィスキーと氷と水。オカキがちょぼちょぼ。午後三時、外ではお天道様が光っている。 「これしかないのよ」とケロリと言った。 「けっこうでございます」 と僕とカミさん、共に酒は断れない性質なのだ。というわけで、さっそく午後三時の酒盛りが始まった。  ウィスキーを嘗《な》めてオカキをポリポリ。 「お寿司でも、食べに行く?」 と唐突《とうとつ》なるお言葉である。この唐突さもまた彼女の売り物なのだ。午後の三時に? しかし僕もカミさんも、美味なるものは断れない性質である。 「結構でございますな」  そんなわけで慌《あわただ》しく近所とはとてもいえない距離にある寿司屋を訪れたわけである。さすが彼女のひいきだけあって、酒よし。ネタよし。にわかに昼下りの宴会場となり僕ら三人大いに喰《く》らい、飲み、共通の知人をマナイタに乗せ、一人ずつ根気よくコキおろすというしようもない作業をひとしきり続けた。  ふっとモリ・ヨーコの表情が曇った。毒舌のペースが鈍り、苦い表情がときたまよぎり、うつむいてしまう。 「ど、どうしたの?」と僕。 「あのね、飽食《ほうしよく》の後って、いつもなんだか悲しくなるのよ」  なんとモリ・ヨーコの日頃の奔放《ほんぽう》さは、どこへやら、一瞬彼女の別の素顔をかいま見たような気がしたのだった。  丁度夕陽が沈みかかる頃、僕らはチドリ足で寿司屋を出た。 「どうする? このあとまた家で飲み直す?」  僕とカミさんは一瞬|躊躇《ちゆうちよ》した。モリ・ヨーコの眼は、仕事の邪魔をしたんだから、最後まできちんと邪魔をすべきではないのかと訴えていた。  だが、しかし、ここで抑制することこそ、現代人の優雅さではないか。僕とカミさんは、モリ・ヨーコをその場に残しつつ、後髪を引かれる思いで立ち去ったのであった。正にシェーンの心境だな。あのラスト・シーン。  が、「シェーン、カム・バック!」の声はなかった。  とまあ、僕は解説のネタを仕込んで帰宅の途へ。さてさて、連休明けには一体どんな贈り物が彼女から届けられるやら。 [#改ページ]   もりソバの正しい食べ方  むし暑い日が続き、夏バテ気味なので、少し食べものの話などしてみたいわけである。  夏といえばソバである。ソバといえばもりソバである。冷し中華も、それはそれで夏の風味であり、捨てがたいものがあるが、メンの色、スープの色、添えたからしの色など、見ようによっては多少あつ苦しくもある。そこにいくと、もりソバは清楚な色あいといい、セイロに盛られたりりしい姿といい、非のうちどころがない。  むかし、勤め先の近くなのでよく食べに行った代々木一丁目の�滝川�のオヤジの言によれば、日本ソバには、カルシウムを除いて、人生を健やかに行きぬくために必須の栄養素がすべて含まれているのだそうである。「いわば、これは準完全食品なのですよ、木村さん!」滝川のオヤジはそういって、ドンとテーブルをたたくのが常であった。  夏である。このもりソバに生卵を一箇つけて見たいと思う。いうところの�玉《ギヨク》つき�である。  最近、ちょっとシャレたソバ屋に入ると、もりソバにウズラの卵を一箇つけてくるところがあるが、頼みもしないものを勝手につけて出すところにすでにして問題が胚胎しているばかりか、つける以上は、こんな小さなものでは物足らないのである。やはり、ここは鶏卵一箇を奮発特注してもらいたい。  卵といえば、牛乳とならぶ、正調完全食品である。もりソバが食品の大関とすれば卵は横綱級である。かくして、玉つきもりソバこそは、一横綱一大関のそろい踏みのようなものであって、豪華この上ない夏一番のメニューということになるのである。まさに、ソバを�食べる�というよりも、�いただく�という心構えが基本にドシッと座らねばならない。私はこれを、普段より玉つき様と敬い親しみ申し上げている。  ところで問題は、この卵のつかい方である。要は、ソバつゆの中に黄身だけをまぜればよいのであるが、これを簡単に考えてはならない。玉つき様をおいしくいただくためには相応の手順が必要なのだ。卵は大概の場合、一箇丸ごとか、割られたものが白身も一緒に小鉢に入れられてでてくる。  玉つき経験の浅い素人は、とかく物事を安易に考え、単純なもりソバを食べる場合と、玉つき様をいただく場合との違いを深く認識していない。認識不足の結果、のっけからソバつゆを徳利からソバ猪口に注ぐ、という短兵急な行動をとってしまう。次いで、卵の入った小鉢を取りあげ、ここで初めて自らが抜きさしならない困難な事態に直面していることに気づく。小鉢に入った卵から、白身を残し、既に猪口内に満々と充てんされたソバつゆの中に黄身だけを静かに落すということは、至難の極みである。やむなく彼は右手に持った割バシで小鉢内の黄身を必死にかき出し、ソバつゆの中に落下せしめんと試みる。その緊張にひきつった表情は、バンカー内からピンそばをねらい、左つま先下がりのトラブルショットを今しも打たんとする月イチゴルファーの形相にほとんど等しい。当然のことながら、この種の努力は、悲惨な結果に帰することが多い。黄身に引きずられて白身までが懸命の努力を嘲笑うかのようにジョボンとソバつゆ内に没入する。そればかりではない。黄身はともかく、白身の方には引きずられて飛びこんだ分だけ勢いがある。差別された者の反発もあろう。当然の結末として、猪口内のソバつゆは四方に飛散し、机上はおろか、不幸なる客人の背広、ネクタイを容赦なく襲う。客人は「おしぼり! おしぼり!」と大声で叫びつつ、はてしなく逆上する、という仕儀となる。  しかし、こうした結末は、玉つき様に対する不敬の念のしからしむるところ、自業自得ともいうべきものである。かくいう私も、玉つき様に対する信心の足りぬ若かりし日々に、何度こうした辛酸をなめたか知れない。  それでは、玉つきソバ喰いのプロフェッショナルは、どのような手順で、玉つき様をいただくのか。  正解手順の第一は、小鉢に入っている卵の中味を、黄身も白身ももろともに、いきなり空のソバ猪口の中に移してしまうのである。しかる後、黄身の側面に割バシを当て、「玉つき様、玉つき様」と心中静かに念じながら、割バシの当っている側が次第に下方に向くよう、猪口を小鉢の上に傾けていくのである。すると、アーラ不思議(当り前かな)割バシの間から白身だけがスーッと抜けて、ついには黄身|独《ひと》りが猪口中央に鎮座まします状態というものがここに現出するわけである。ここではじめて、かたわらのソバ徳利をむんずと引きよせ、「今日も一日健やかでいられますように。家族が息災でありますように」と祈りつつ、ソバつゆを玉上《ぎよくじよう》におかけ申し上げ、静かにつゆと黄身をまぜあわせ申し上げ、オソバをいただかせていただくのである。  かくして、まことにおいしい玉つきソバはいただいたのであるが、このままでは何とも納まらないのが、小鉢に残された白身である。つい先頃までは、黄身とともにあって、固いきずなに結ばれていたのに、今は独りとりのこされる身。このまま無視されて捨てられてしまったのでは白身の立つ瀬がない。通人たるものこれを見捨ててよいものであろうか。否。  ここで、玉つきソバ喰いのプロは、所在なげに鉢内にたゆとう白身への愛にハタとめざめるのである。プロは、ゆっくりと片手をあげ、熱いソバ湯を所望すると、手ばやく割バシで白身をかきまぜながら、ソバ湯を一気呵成に鉢内に注ぐ。突然注目を一身に集めた白身は、喜びに激しく身をふるわせつつ次第に不透明な葛湯のようなものに変身する。これに残った薬味を入れ、適量のソバつゆをかけ、おもむろにズズズとすすってゆくのである。ほんとに、これちょっとウマいんである。 [#改ページ]   初のオロカ本ハズカシ出版録 「今やキムラ弁護士の時代が来たのです」などという、某出版社の意味不明のヨイショに乗せられて、今年の春『キムラ弁護士が駈けてゆく』という、タイトルもおこがましいかぎりの、半自伝風エッセイとでもいうべき、奇妙な本を出してしまった。  これまでも、本を出したことがなかったわけではないが、今回のように専門から離れた、しかも自分のことを書いた本を出す、ということは初めてなので何ともウレシハズカシ、一種不思議な気分であった。  そうした何となく背中ムズムズ心ソワソワ的雰囲気でいるところに加えて、いざ配本も済むと、編集者や知人友人などが僕の気分をますますカクランさせるようないろんな情報を持ってくる。  どこの有名書店では、一番目立つところに三列平積みにしてあったの、あっちの書店では週間売上げ部数十位以内に入りそうだの、あげくは、こっちの書店では目の前で二冊たて続けに売れたのをシッカと見てきたの、といった次第である。出版サイドとしての景気づけやら、悪友のヒヤカシ気分やらが多分に含まれている『情報』に違いないと知りつつも、こうなると書店の前を平常心で通りすぎることなどとてもできるものではない。吸いこまれるように店内に足が向き、ハッとワレにかえってみると我子を尋ね探すかのようにいつの間にか新刊売場を徘徊している、というような夢遊病状態に陥ってしまうのである。  売場で確かに我子…ならぬ我本が平積みになっているのを見てはウムウムと一人周囲に気兼ねしつつうなずいたり、なぜか法律実務書の棚にまで置いてあるのを発見して、ウームとうなってみたり、場末の小さな書店で下の方の棚に一冊だけ日蔭者のように置いてあるのを発見しては、もう少し目立つ棚へコッソリ入れ替えて、まるで万引き少年のごとく逃げ出したり、と、まことに親バカここに至れりという風情。このうえは目の前で誰かが買うところを一目見たいものと、店内をウロウロしながら、目線は油断なく我が本に向けること約十分。若い男の手が僕の念力に操られるように我本にのび、パラパラとページをめくる姿を見た時には、�そのまま買ってくれ、何なら代金はオレが払おう。オツリも君にあげよう�と、思わず駈け寄って叫びたいほどの衝動にかられたのである。  醜態の極みであるが、それもしかたあるまい。今や、大変な売れっ子作家となった我友椎名誠でさえ、初めてのエッセイ本を出した時には、やはりソレとない風で都内の書店を歩きまわり、ついに目の前で自分の本が売れたのを見とどけるや、思わず見ず知らずのその客のあとを約五〇メートルもつけまわしてしまったが、まさか「有難う」とお礼をいう訳にもいかず、その客がバスに乗って行くのを呆然として見送っていた、というくらいなのであるから……。  さて、初エッセイ出版ウレシハズカシ気分の総仕上げは、�出版記念サイン会�なるものであった……とはいうもののサイン会は全く初体験というわけではない。椎名誠やその仲間との公開座談会なるものを企画し、そのあと共同でサイン会を開いた時など、僕も端の方に座ったのだが、僕以外の著者のところにはサインを求める不特定多数の長い列ができているのを横目に、何の御縁か僕の本(もちろんエッセイ本ではない)を買ってくれたごくごく奇特な特定少数の方々に、僕は手厚く手厚くサイン申し上げたものであった。いかんせん、僕のそれまでに出していた本というのは「サラ金トラブルうまい解決法」とか「うまい話に御用心」などという(それなりに僕自身は名著と信じているものの)どうにもサイン会にはなじみ難いものだったのである。  しかし、今回はやっとサインをするにぴったりの自分の本ができたのである。お茶の水の書店やら地元の書店やらでサイン会の企画がたてられた。  当然のことながら、家族からは「地元で余りみっともないマネをしてくれるな」と総スカンを食ったが、そんな事でひるむような僕ではない。書店の熱意に応えるべく、サインの練習をくり返す日々が続いた。サインというからには黒々と墨跡も美しい毛筆サインが良かろうと、種々雑多な筆をそろえたのち『ぺんてる筆ぺん』が一番すぐれている、との結論を下し、それからは筆に慣れるため訴状の原稿も友人の手紙もすべて筆ぺんをふり廻して書きまくった。  そしてサイン会も無事終えたころにはもうサインの達人となり、事務所で豊田商事事件の電話取材などをうけながら、書店の回し者が次々と差し出す本に、サラサラとサインをほどこせる程の境地に達したのである。  出版社からは「かくなる上は、第二弾を出すほかありません。御決断を」などとまたまた妙なヨイショをかけられているが、どうもこれは中毒しそうで、コワイなと思っているのである。 [#改ページ]   わが家にもケンポウがある  ともかく、放任されて育った。実家は下宿屋だというのに、学生時代に自宅を飛び出して、同じような半落ちこぼれ的友達と六帖一間に下宿。その当時の共同生活ぶりは、仲間だった椎名誠の『哀愁の町に霧が降るのだ』という作品の中に詳記されている。  貧しくてどう考えても快適な生活ではなかったが、これこそまさに春青といえるような�心豊か�な生活を送りえたのは、親が子に「将来立派な人に」などという特別の期待を持たず、その結果として子供の自由を重んじてくれたからだろう。  カミさんはといえば、躾《しつけ》の厳しい、少し古風なところのある家庭で育ったから、結婚当初はいろいろ戸惑ったものだ。二人の娘たちの教育に関する主導権は当然のごとくカミさんが握ってきたので、それ相応の躾は施している。  上の娘は高一、下の娘が中一。二人とも我々夫婦が初めて出会ったころの年齢になった。これから一〇年前後が、一番おもしろく、かつ哀しい時代である。娘たちには、この大切な時代を目いっぱい自由に生きて欲しい。刹那的に生きよ、というのではない。この時代を将来のため犠牲に、などというケチな了見で過ごしてほしくないのだ。将来の希望に備えるもよい。しかし、それは同時に、今生きているその時を楽しみ、哀しみつつ、であってほしい。  残念ながら今の学校教育は(考えてみれば、僕の学生時代も多分にそうだったのだ)、将来のために貴重な今を犠牲にすることのみに力を入れているように思える。学校がそうであればこそ、せめて家庭はそうであってはならないように思うのだ。  こういうわけで、我が家のガイドラインは、あってないようなものなのだが、最近、上の娘と大ゲンカをした。日曜日、テレビを見ていたら娘が突然チャンネルを変えようとしたのだ。僕は感情ムキ出しで怒鳴り、二週間後に娘が事務所へ電話でワビを入れてくるまでひとことも口をきかなかった。日ごろ仕事に追われている父親のタマの楽しみを大切にしてやろう、という思いやりがほしかったのである。  父親も、今を生き、今を楽しみ、哀しみ怒る自由がある。このことだけは、キッチリわかってもらわねば困る。 [#改ページ]   私の「三間」  スポーツ新聞とは何か? それは間を埋めるモノである。お断りしておくが、僕のいうのは、間《マ》であって、決して暇《ヒマ》ではない。暇を埋めるとなれば当然、旅行をするとか、文庫本を読むとか、日がなゴルフをするとか、そんなことになる。  日曜も休めぬほど、仕事に追われ追われている気鋭の青年弁護士には不幸にしてそのような暇はないので、したがって僕は、ごくごくたまにしか旅行はしないし、文庫本はめったに読まないし、ゴルフはまったくしないのである。  こういうと、あるいは妻から「あらま、それなら、休みのたんびに午後三時すぎまでゴロ寝していて、やっと起きたと思ったら二時間もかけておフロに入っているのは一体何なのかしら」と、内部告発があるやもしれぬ。しかし、あれは暇のなせることではない。午後三時まで寝ているのは、夜おそくまでというか、朝早くまでというか、お酒を飲んでしまうために疲れきっている身体を休めているのであるし、二時間かけてヌル湯につかっているのは、血液の循環を良くして、体内のアルコールの分解を促進し、しかして一刻も早く翌日からの激務によく耐えうる体力を回復せんとするものであり、よってもってこれらの行動は、治療行為ないし業務準備活動もしくはこれに準ずるものとして高く評価さるべきなのです。決して暇つぶしではないのです。  こういうと今度は、「あらま、あらま、それならどうして、そんなに夜明けまでゆっくりお酒を飲んでいられるのかしら」と、妻はさらに鋭くつめ寄るであろうか。しかし愚かな妻よ、あれは暇で飲んでいるのでは決してないのだ。暇がないから、おフロに入る時間や寝る時間をも切りつめて飲んでいるのですよ。わかりますね。  こういうわけで、いつも暇のない僕なのだが、そんな僕にも、一日の中で何回か、間《マ》というものがやってくるわけである。トイレに入っているとき、電車に乗っているとき、湯舟につかっているとき、この三つのときがその代表的なものである。多忙をきわめる木村弁護士の「三|間《マ》」とでもいっておこう。この三間を、何もせず、何も考えず、ただボーッとすごすのも一つの行き方ではある。  しかし僕にとっては、この三間[#「三間」に傍点]こそは、繁雑な一日の中にあって自分自身を取り戻し、自分自身を生きるための、貴重な瞬間である。いつもいたずらにボーッとしているばかり、というのはいかにももったいない気がするのだ。そこで、この三間[#「三間」に傍点]にスポーツ新聞が登場してくるのである。  僕の愛読新聞は、毎日新聞、週刊将棋、そしてスポーツニッポンである(日刊ゲンダイも読んでいるが、講談社はこれは雑誌としているらしい)。しかし、三間に最も適する読み物はスポニチである。  まず、朝のトイレにおいて禁物なのは将棋紙である。専門紙であるが故に、どの記事も気の抜けないものになっており、棋譜を追ったり、次の一手を真剣に考えたりしているうちに、いつか忘我の域に達し、しまいには何のために自分がシャガんでいるのかさえわからなくなってしまい、出勤電車に乗り遅れることになりがちである。  その点スポニチの場合は、野球人をオチョクッてなかなか好調の四コマ漫画のコジロー作「いも虫ランド」と、見出しと写真ばかりがやたらに大きくてあまり内容のない一面の記事を読んでいれば、アトをひかないところもスッキリしており、用便時間との対応もごく適当なのである。  しかし、最もスポニチがその威力を発揮するのは第二の間《マ》である出勤電車の中である。僕がスポーツ紙の中でスポニチを一番買っている最大の理由は、将棋界の三大タイトルの一つ、王将戦を掲載していること。特に王将位決定七番勝負の闘われているときには、第二面を一杯につかって、戦況をいろいろな角度から生々しく特報してくれるのが本当にうれしい。これこそスポーツ紙でなければできない独自の報道スタイルである。いかに毎日新聞が棋界最高のタイトル、名人戦を掲載しているからといって、このような特報態勢をとることは、一般紙の宿命として到底できないのだ。  僕の住んでいる東府中から勤務先のある新宿までは京王線で約二五分。この王将戦の棋譜と観戦記を読み終えるころ、電車はつつじヶ丘あたりを通過するが、ここで頭をひと休みさせて、競馬欄に移る。土日のメインレースの有力馬の調教状態などをチェックするうち、明大前駅に到着する。新宿まであと約七分。ここから大山名人出題の詰将棋を解きはじめ、何とか終点新宿までに正解に至れば、その日一日何となくうまく行きそうで、事務所へ向かう足どりも軽いのだ。本来野球中心のスポーツ紙にしては、おかしな愛読者といわれるかもしれないが、車中の二五分、キッチリ楽しませてもらっているのである。  さて三|間《マ》の最後をかざる入浴時においてスポーツ紙を読むことのすぐれている点は、湯気でふやけても気にならない、という一事にある。時折保存の必要性の生ずる一般紙や週刊誌では、なかなか心おきなく湯舟でゆっくり読むというわけにはいかないものである。  かくして、スポーツ新聞こそは、僕の最高のホビーであり、これで一部七〇円は、本当に安いと思うのである。 [#改ページ]   毛皮フトンの誘惑  世はまさにクレジット時代。年間のクレジットの利用高は三〇兆円というわけで、国民一人あたり年三〇万円。大人二人に子供二人の平均的一世帯で年一二〇万円、月になおせば一カ月一〇万円の利用高。  僕のように、消費者運動にかかわりをもち、クレジット利用に多少なりとも批判がましいことをいっている人間も、決してクレジットと無関係に生きていられるわけではない。ともかく、本人が知らない間にさえ、いつの間にか借金している時代なのである。なぜこんなことをいうかといえば、わが家の女房どのがある日突然、「どうも私はサラ金に借金があるらしい」とあおざめて僕に真顔で相談してきたことがあったからだ。  一体何ごとかと思ってきいてみると、「何んだかO・ファイナンスというところから請求がきているの」というのである。僕がクレジット事情にくわしいところをヒケらかしつつ、「O・ファイナンスていうのはサラ金ではないでしょう。信販会社ですよ。ところでキミは最近、何か買ったのではないか?」と聞いてみると、訪問販売員から羽毛フトンを買ったという。調べてみると案の定、その代金をO・ファイナンスが立替払をしているという訳であった。そういわれて気付いてみれば、僕はどうも羽毛フトンに寝ていたようだ。  僕は相変わらず帰宅が遅く、帰れば即、敷いてあるフトンにもぐり込むだけで、その寝具が如何なるものか等と考えたことはなかった。要は、寝られれば良いのである。寝具も近ごろでは、綿フトンの他、羽毛フトン、羊毛フトンとかムアツフトン等々といろいろ種類も多くなった。  昨日は毛皮フトンなるものを売りに来たという。毛皮フトンとはいかなるものかといえば、七〇ぴきほどの羊の毛皮に綿をつめた裏打ちがほどこしてあり、今回は特別デモンストレーション価格で一枚三五万円であるという。毛皮のコートなど、年に数回きり着ないものに金をかけるより、毎日使うフトンこそ良いものを使うべきで、「一〇年使えば、一日分一〇〇円弱。一日一〇〇円足らずでこんなにすばらしいフトンに寝られる」とくどいたらしい。  くだんのセールスマン氏は寝具に四〇〇万円程もつぎこんだとのことである。通勤時間が二時間以上もかかり、その上仕事が忙しいゆえ睡眠時間は四時間位しかとれないが、最高のフトンに寝ているおかげで熟睡できるから元気です。と、のたまったというのだ。ここで、わが女房殿もウーンとウナッて考えた。四〇〇万も寝具につぎ込むお金があったら、それを頭金に回し、もう少し勤務先に近い所に住めば睡眠時間はもっととれそうなものではないか——。そうなってくると三五万円の毛皮フトンを買う気はすっかりなえてしまい、丁重におひきとり願ったという。  おそらくは気付きもせずに寝るであろう毛皮フトンのために僕の小遣いが減らされずにすんだことは、実にめでたいことであった。 [#改ページ]   椎名誠もすなる日記風にて  この夏は前半涼しかったので、今年はすごしやすいのかなと思ったのは考えが甘かった。後半の暑さはスゴ味があった。なめたらアカンね。  そこで、この酷暑を一人の弁護士がいかにすごしたかということについて、椎名誠もすなる日記風にて、したためてみたい。 ××月××日[#「××月××日」はゴシック体] 明け方からムシ暑く、六時ころにはすっかり眼がさめてしまった。寝不足で頭はボーッとしているのだが、こうなるともうねむれるものではない。一時間ほどふとんの中でゴロゴロしていたが、あきらめて新聞を取りに出る。いつものように漫画から読み始め、社会面、そしてスポーツ欄から将棋欄へと進む。そしてフト家庭欄を見ると�夏バテで食欲のない日の特別メニュー�なる文字が目にとまる。これはなかなかタイムリーな記事と座り直したところ、何と、おすすめメニューは�冷し温泉たまご�だというのである。御存知ですか。温泉たまごって、温泉旅館の朝食で出てくる半熟の黄身にドロドロッと半熟の白身が薄気味わるーくへばりついている、あの妙なヤツですよ。僕なんか、別に夏バテしてない食欲旺盛なときでも、胸クソ悪くて食べられませんよ、あんなの。それを、何だって夏バテで食欲のないとき食わにゃあいけんのよ。ホントに料理研究家って何考えてんのかね。ますます食欲減退す。 ××月××日[#「××月××日」はゴシック体] 今夜は、久し振りに色川武大さんと一杯飲む約束になっていたので、女房殿とミーハーの南里秀子を誘い、四谷の小料理屋「夜ばなし」に行く。この界隈で最近一番気にいってる店で、酒も肴も滅法ウマいのだ。酒は、ここの店主がブレンドした冷酒が、つたの葉を浮かせた小粋な磁器の片口《かたくち》に注がれてでてくる。料理はいちいち注文しなくても、小鉢に少しずつ入れて適当にでてくるが、それがまた、ことごとく結構ときているから、実によい。  色川先生の仕事場は、そこからすぐ近くなので、先生をその店まで引張り出そうと、頃合いを見て電話を入れる。が、男性の秘書が出て、「色川は昨日出張から帰る予定だったのですが、まだ連絡がないんです」と心細そうに答える。「僕と飲む予定が入っているでしょうか」ときくと、ややあって、「アッ! カレンダーに、『弁護士来たりて笛を吹く』と書いてありますから、承知と思います」との返事。しかし、その後何回か電話するも色川先生とは連絡とれず。こないだまで色川宅のお手伝いをしていた南里が、「きっと、どっかでチンチロリンにでも熱くなってらっしゃるのよ」と半分心配そうに笑った。このあたりから色川先生を肴に大いに酒席は盛りあがり結局もう一軒ハシゴをして、タクシーにて帰宅。 ××月××日[#「××月××日」はゴシック体] 『キムラ弁護士がウサギ跳び』(情報センター出版局)がようやく発刊にこぎつけ、お茶の水茗溪堂にて、サイン会。夏休みというのに、学生さんがたくさん来てくれたうえ、花束四つももらい感激。明大の生協では、大塚仁博士の刑法入門の隣に�ウサギ跳び�が並んでいた、との情報に恐縮。サイン会終了後、恒例により小川町の「鳥玄」で打上げ。好物の砂胆《スナギモ》を薄塩で一〇本特注するも、おばさんがはこんできた皿には七本のみ。「すいません。今日はもうこれだけしかなくて」とのこと。「エライ! ここがこの店の良心的なところ。なまじな店なら、七本分で一〇本作って知らん顔で出してくるよ。串の上下にネギなんか差して水増ししてね」そういってほめると、おばさんは歯ぐきで笑いながらもどっていった。  サイン会の日は弁護士は機嫌が良いので、何でも善意に解釈してしまう。 ××月××日[#「××月××日」はゴシック体] 僕が顧問をしている会社の乗っ取り事件が発生し、急遽代々木方面で依頼者と打合わせる。ワケがあって、株主の名義を知り合いの税理士の名前にしておいたら、そいつが勝手に会社の法人登記を書き換え、僕の依頼者を社長から降ろし、自分を代表取締役にすえてしまったという。とんでもないやつがいるものである。  ついでに久々に、代々木一丁目の日本ソバ屋、「滝川」に寄る。一年振りだがオヤジはますます元気。例の方式(二三二頁以降参照)にて、玉《ギヨク》つきソバ(生卵つきのモリソバ)をいただくと、「木村さんのその食べ方、なつかしいですね」とオヤジはしみじみいい、どうしてもソバ代をうけ取らない。好意に甘える。  夕刻より本の雑誌社にて、五〇号記念の座談会。椎名、沢野、目黒、そして僕の四人で�本を読むだけで商売になる方法があるか否か�について激論を交わす。夕食にはまたソバの出前をとったので、ひとしきり、玉ツキソバ談義に花が咲く。目黒は、黄身も白身もかきまわしたのちにツユの中に入れてしまい、しかるのちにソバをつけて食べるのが正しい食べ方だと主張して譲らない。町田方面ではそういういぎたない食べ方が主流かもしれぬが、そんなのはとても江戸前の手順とはいえぬ。ことわっておくがモリソバに生卵をつけるというのは、元来余り粋な食べ方ではない。「モリソバの正しい食べ方」で僕の紹介した方式くらいがギリギリのところである。 [#改ページ]   あとがき  気がつけばエッセイスト  まさか、僕がエッセイ集などというものを出版する人になろうとは、ついこのあいだまで思ってもみなかった。  思えば、今から六年前、ちょっとした事件で八丈島まで出掛けたら、折悪しく台風に巻きこまれ、六日間の島流し。仕事をしようにも記録もなく、東京と連絡をしようにも電話さえ故障という最悪の事態の中で、余りの所在なさに書きなぐったのが「八丈島のロックンロール」である。  もちろん一度かぎりのつもりで書いた原稿だったのだが、椎名誠が酔興で「本の雑誌」に載せてみたところ、「何だか晋ちゃん評判いいよ、もうちょっと書いてみたら」というので、とうとういつの間にかレギュラー執筆陣の一人、ということになり、あげく、他の雑誌にまで手を出す始末。筑摩さんに言われてふとふりむいて見ればゆうに単行本一冊分以上の分量になっていた、というのがコトの真相である。  本業の弁護士以外に関しては、何ごとも無計画、行きあたりバッタリがよい、という信念で四〇年余りを生きてきてしまった僕に、ふさわしいと言えばこれほどふさわしいことはないようなこの本の生いたちではある。  このエッセイ集を出版しようという筑摩の編集スタッフの皆さんが、「何度か読みなおしましたが、ま、ともかく、絶対面白いですよ」と言って下さるのだから、どっかに少しは面白いところがあるはずなので、うっかり買ってしまった人は、ぜひともすみずみまでお読み願いたい。さすれば私も、その御家族、御友人の皆様の御多幸を心からお祈り申し上げたい、と思う次第なのであります。   昭和六三年八月一日  秩父より池袋に向う車中にて 木村晋介(きむら・しんすけ) 一九四五年長崎県生まれ。中央大学法学部卒業。一九七〇年弁護士開業。消費者問題、環境問題、プライバシー問題などに深くかかわり、著作やテレビ・ラジオ出演などに幅広く活動。著書に『二十歳の法律ガイド』『六十歳の法律ガイド』『僕の考えた死の準備』 『ネコのために遺言を書くとすれば』『キムラ弁護士の友情原論』『遺言状を書いてみる』など。 この作品は一九八八年一〇月、筑摩書房より刊行され、一九九二年一二月、ちくま文庫に収録された。